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総司にフラれて自殺未遂した少女

総司にフラれて自殺未遂した少女

総司は、江戸の試衛館で修行中だった頃、つまり多感な思春期の真っただ中に、ひとりの女の子から求婚されています。 しかし、 「修行中の身ですから・・・」 と、総司が断ると、なんと彼女は恥ずかしさのあまり、懐剣で喉を突いて自殺未遂を図ってしまいました。

沖田総司の家族

沖田総司の家族

総司は、残念ながら肉親との縁が薄かったようです。 まだ10歳という幼い時期に家族と別れ、試衛館に弟子入りしなければならなかった幼少時代。 病で戦えなくなり、江戸に戻っても、家族は江戸から離れてしまい、ひとり寂しく生涯を終えることになりました。

沖田総司 プロフィールと経歴

沖田総司 プロフィールと経歴

新選組の幹部として活躍する以前、試衛館時代から、総司はその天才剣士振りを発揮していたようです。 若くして複数の流派の免許皆伝を得て、試衛館塾頭に。 10代の無名時代でさえ、総司の才能は認められ、将来を嘱望されていたのです。

沖田総司 新選組での活動

沖田総司 新選組での活動

ここでは、新選組として活動していた沖田総司の役職、愛刀、出動した任務、 そして、おそらく初めて関わったと思われる暗殺事件に関する考察などをご紹介します。

沖田総司の病気、労咳の発病時期

沖田総司の病気、労咳の発病時期

沖田総司の死因は、労咳。 現代で言うところの肺結核だったというのは、有名な事実です。 池田屋での戦いの最中に喀血するというエピソードが、長い間史実と信じられ、数多くの映画や小説、ドラマなどでもそのように描かれてきました。 しかし、最近では、 「労咳で喀血するのは末期症状。 そうなるともう余命は半年から一年しかないから、池田屋(1864年)で喀血した総司が、慶応4年(1868年)まで生きているとは考えにくい。 総司の発病はもっと後では?」 という説もあるようです。

沖田総司の写真や肖像画について

沖田総司の写真や肖像画について

残念ながら、総司の写真や肖像画の類は、一枚も残っていません。 「沖田総司の肖像」として出回っている絵は、昭和に入ってから描かれたもので、モデルは、要さんという方です。総司の姉、みつさんのお孫さんですね。 みつさんが、「どことなく総司に似ている」と言ったのがキッカケで描かれたものだそうです。 また、 「最近発見されたらしい」と話題(笑)の写真ですが、これは、おそらくここが出所です。

沖田総司の辞世の句

沖田総司の辞世の句

総司が詠んだといわれる辞世の句に、「動かねば闇にへだつや花と水」というものがあります。 この句の解釈の一説に、「花は総司自身、水は土方歳三」を表現しており、「戦えなければ、土方さんと離れ離れになってしまう…」という総司の嘆きが込められている、というものがありますよね。しかし、これ、ホントに総司の詠んだ句なんでしょうか?

出撃前夜に逝った恋人、小常

出撃前夜に逝った恋人、小常

永倉新八は新選組時代、ある女性との間に娘をひとりもうけています。彼女の名は、小常。島原遊郭、亀屋の芸妓でした。 永倉は自筆記録の中で、この小常さんの事を生家の名字「長倉」を冠して記載し、「長倉新八貰請ク」と記しています。 また、小常さんの名は彼の生家である長倉家に伝わる過去帳にも、戒名「妙董信女」と共に残されています。

斎藤一の最初の妻、篠田やそ

斎藤一の最初の妻、篠田やそ

斉藤が最初の結婚をしたのは、明治4年ごろ。 妻の名は、篠田やそ。 悲劇的な死を遂げたことで有名な白虎隊の隊士、篠田儀三郎の遠縁の女性で、会津藩でも名家である篠田内蔵の長女だったといわれています。

斎藤一の二人目の妻、高木時尾

斎藤一の二人目の妻、高木時尾

時尾さんは、会津藩大目付・高木家の長女で、幕府が倒れてさえいなければ、由緒正しい武家のお嬢様、という身分の人でした。 戦争が起こる前は、会津藩主・松平容保の姉君である、照姫付きのご祐筆でもありました。 また、時尾さんは、かの有名な山本八重さんとも強い関わりのあった人物です。