芹沢鴨が大酒呑みの酒乱であったことは、あまりに有名な史実です。
芹沢が酒を手放せなくなった理由のひとつとして、彼が梅毒患者だったからでは?という説があります。
ここでは、その説の真偽について考察してみたいと思います。
芹沢梅毒説の出所
文久3年、上洛した浪士組のメンバーの一人だった、草野剛三という人が、この説の出所のようです。
この人は、清河八郎の企みを分かった上で浪士隊に参加したメンバーでした。
清河サイドの人だったので、もちろん京都残留などせず、清河たちと共に、すぐ江戸に戻っています。
清河が暗殺された後も、しばらくは新徴組に所属していたようですが、結局脱走して、後に水戸の天狗党に参加しました。
後年になって何故か近藤勇を酷評するなどしていますが、実際、草野が近藤や芹沢と過ごした時間なんて、江戸から京に旅をした、ほんの数日です。
旅の間、ずっとべったり一緒だったってわけでもないでしょうし…。
どうしてこの人が芹沢のごくプライベートな病気の情報などを知り得たのか、まずもってそこが不可解です。
草野が試衛館一派と関わった期間はあまりに短く、その密度も特に濃かったわけではなさそうです。
芹沢の病気の件に限らず、この人が新選組隊士の事を何か語ったとして、その証言にどの程度の信憑性があるのかは、正直微妙な気がします。
乱行はすべて梅毒のせい?
戦後、ペニシリンが普及するまで、梅毒患者はとても多かったわけですから、芹沢鴨が梅毒に感染していた可能性は、ゼロとは言えません。
しかし、芹沢と一緒に生活していた八木家の人々や、その他の新選組隊士からは、彼が梅毒患者だったようだ、というような証言もありませんし、伝え残る剣技や腕力の凄まじさからも、身体を悪くしていたような印象はありません。
分かっていることは、
- 芹沢の死因は梅毒ではない
- 沖田総司の労咳のように、芹沢が梅毒に掛かっていたなどの記録は無い
- 芹沢と数日過ごした新徴組の脱走隊士が、後に「芹沢は瘡が出来て悩んでおり、病気だから京都に残した」と証言した
結局これだけなんですよね。
「芹沢はひどい梅毒に悩まされていて、死への恐怖を紛らわせるために、酒が手放せなかったのだ」
なんて、まことしやかに書かれている書籍やwebサイトはたくさんありますが、芹沢鴨は生粋の侍で、元・天狗党の大幹部でです。
その活動の最中、投獄され、一度は腹を切る覚悟をしました。
迫り来る切腹の日に備えて、絶食したり、辞世の句を残したりもしています。
そんな、疾うに死を覚悟した武士が、梅毒で己を見失うほど恐怖していたというのも、なんだか妙な話じゃないでしょうか。
また、
「芹沢は末期の梅毒で脳をやられていたから、あんな乱行を繰り返したのだ」
なんて説もありますが、彼は「蛤御門の変」で出動した際、会津藩士から抜き身の槍先を多数突きつけられても、それを鉄扇ひとつで払いのけています。
大阪で力士を斬った際には、分厚い脂肪に覆われた力士の身体を骨まで断ち切った、なんて話もありますし、とにかく、豪腕、豪剣なのです。
脳に障害が出るほどの末期症状を患う梅毒患者に、こんな芸当ができるとは、とても思えません。
梅毒というより、アルコール依存症では?
上記の理由から、芹沢が脳を病むほど末期の梅毒だったとか、梅毒でいつか訪れる死を恐れて酒に溺れていた、という説は、あまり信憑性のないもののように思います。
芹沢の過ぎた飲酒は、むしろ単純なアルコール依存症だったんじゃないでしょうか。
「呑んでいない時には、聡明で良い人だった」といわれる一方で、呑むと手が付けられないような暴挙に出るのも、アルコール依存症の典型的な症状という気がしますし…。
そうなるともう、中々個人でどうにかできるものでもないでしょうしね…。
もしお酒というものがこの世に存在せず、芹沢がずっと正気で働ける状態を保っていたら、その後の新選組も、大きく違っていたかもしれませんね。
※結局はこれも個人的な見解に過ぎません。見方は人それぞれです。