土方歳三の命日
新選組副長、土方歳三は、明治2年5月11日に亡くなりました。
享年35歳。
馬上で戦闘を指揮している最中、敵の銃弾を腹部に受けての、討ち死にでした。
鳥羽伏見の戦いの後、バラバラになった新選組の主要メンバーたちは、それぞれの場所でそれぞれの戦いに身を投じていきます。
ここでは、土方歳三がどのようにして、この最期の日を迎えるに至ったのかをご紹介します。
盟友達、そして、近藤勇との別れ
慶応4年1月に勃発した鳥羽伏見の戦いに敗れて以降、新選組は急速にその輪郭を失っていきます。
井上源三郎や山崎進の戦死、原田左之助、永倉新八との決別、沖田総司の病による戦線離脱、そして4月3日。
流山に布陣した新選組は、ここで新政府軍に包囲されてしまいました。
近藤勇は、この時切腹を決意します。
しかし、これまで必死に近藤を守り、支え続けた土方には、近藤のそんな決意を受け入れることはできませんでした。
「ここで死んでは犬死だ。運を天に任せ、板橋総督府へ出頭し、あくまで鎮部隊として活動していた事を主張すべきだ」
そう近藤を説得しました。
結果、近藤は、土方の訴えを受け入れ、新政府軍に投降します。
ですが、新政府軍とはいえ、その実態はこれまで新選組と激しく対立してきた薩長です。
冷静な対応など望めるはずもありません。
捕まれば、殺されることは明白でした。
近藤自身も、それを予想していなかったわけではないでしょう。
下手に敵に捕らえられ、嬲られて生き恥を晒すくらいなら、その前に切腹した方が楽かもしれませんし、名誉も守れます。
それでも、まだ死ぬなと。
生きて欲しいと。
土方が望むなら、その気持ちを受け取って、単身敵陣に投降できるというのが、近藤勇の大きさだったのかもしれません。
土方もまた、新政府軍と戦いつつ、江戸に潜入し勝海舟に面会するなどして、投降した近藤をなんとか助けようと奔走しました。
しかし、そうした願いもむなしく、4月25日、近藤は切腹すら許されず、板橋で斬首刑に処されたのでした。
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戦場は、会津へ
4月23日、土方は戦場で足を負傷します。
この怪我を負ってから、土方歳三が戦線に復帰するまで、約3ヶ月掛かりました。
かなりの重傷だったようです。
おそらく、足の傷だけでなく、4月11日の江戸城開城や、25日の近藤勇の処刑といった出来事も、土方にとっては大きなダメージだったでしょう。
また、5月30日には、一番隊組長であった沖田総司が病没しています。
このことを土方がどのタイミングで知ったかは定かではありませんが、もしその報が土方の元にも届いていたとすれば、それもまた、土方の心を痛めたことでしょう。
それでも、戦は止まりません。
6月中頃、奥羽列藩同盟の盟主や、旧幕府軍の幕臣らと会談を経て、7月、土方はとうとう戦線に復帰しました。
しかし、会津での戦いも、旧幕府軍は新政府軍の圧倒的な武力の前に苦戦を強いられます。
米沢藩や仙台藩が次々に恭順論に傾いていく中、同盟はとうとう壊滅状態となり、旧幕府軍は海軍と合流し、蝦夷地を目指すこととなりました。
この時、転戦を良しとせず、会津に残って最後まで戦う事を選んだ斉藤一とは、ここで袂を別つこととなります。
満身創痍の旧幕府軍。
蝦夷渡航を前に、土方歳三は、医師・松本良順に江戸に戻る事を勧めます。
お前はどうするのだという良順の問いに、土方は、
「我儕(わなみ)のごとき無能者は快戦、国家に殉ぜんのみ」
と答えました。
わなみ、とは対等な立場で使う場合の一人称のことで、快戦は「思う存分戦う」という意味だそうです。
函館政府、五稜郭にて樹立
蝦夷地を治めていたのは、新政府軍に恭順を示す松前藩でした。
10月27日、土方は、彰義隊・額兵隊・衝鋒隊などからなる700名の軍勢を率いて松前城へと出陣。
11月5日には松前城に到着しました。
しかし、松前城主はすでに逃亡し、城に残されていたのはわずかな兵力のみだったため、数時間で落城。
その後も、松前藩主は逃亡を繰り返し、残された松前藩士も投降したため、旧幕府軍による蝦夷地の平定は成され、12月15日、旧幕府軍は函館政権を樹立しました。
土方は、士官以上による選挙の結果、陸軍奉行並に選任され、同時に函館市中取締裁判局頭取を兼任することになりました。
この函館政府樹立よって、総裁となった榎本武揚やその他の幹部が祝杯を交わし沸き立つ中、土方だけは、冷静に
「今は浮かれる時ではない」
と沈黙を保っていたそうです。
もし、近藤がまだ生きて、ともに戦い、函館政府の中で要職に就いていたなら、
もし、そこに明るい沖田総司やお祭り好きな原田がいたなら、
土方も、苦難の中にあっても、笑顔で誰かと杯を交わすことができたのでしょうか。
蝦夷地戦線で、唯一の不敗を誇った土方軍
翌年4月になると、新政府軍が蝦夷の地に上陸、進撃を始めます。
松前の戦い、木古内の戦い、矢不来の戦いなど、ことごとく旧幕府軍の敗戦が続くなか、土方歳三の指揮下で行われた二股口の戦いだけは、2度にわたる新政府軍の激しい攻勢を見事に退け、蝦夷地での戦線において唯一の不敗を誇っていました。
しかし、4月29日、矢不来が新政府軍に落ちると、退路を断たれ挟撃の危機に晒されたため、やむなく撤退しました。
市村鉄之助に託した、土方歳三の想い
二股口で激しい戦いを繰り広げる中、土方は自分の小姓を務める少年兵・市村鉄之助に、自らの肖像写真や遺髪、愛刀である和泉守兼定を託し、それを土方の実家の日野に届けるようにと命じます。
市村鉄之助は、慶応3年、14歳という若さで、兄とともに新選組に入隊した隊士でした。
入隊して間もない慶応4年の1月に鳥羽伏見の戦いが勃発し、新選組を含む旧幕府軍は、新政府軍の圧倒的な兵力の前に成す術なく大敗を喫します。
その後ほどなくして、市村鉄之助の兄、辰之助が新選組を脱走しました。
新選組隊士として過ごした日々も浅い中、新政府軍との圧倒的な兵力の差を目の当たりにして、これ以上新選組にとどまるべきではないと市村辰之助が考えたとしても、それは不自然なことではありません。
おそらく、鉄之助も兄に一緒に逃げるよう諭されたでしょう。
しかし、鉄之助が選んだのは、新選組隊士として生きる道でした。
そんな鉄之助を、土方は「頗る勝気、性亦怜悧」、つまり、「大変気が強く、賢い」と評していたそうです。
この評から察するに、土方は鉄之助を気に入り、可愛がっていたのでしょう。
函館戦争がいよいよ佳境に入ろうというその時期、鉄之助をあえて戦線から外し「自分の生家に遺品を届けろ」などという任務を与えたのは、たくさんの命が喪われる中、せめて自分に忠義を尽くしてくれた未来ある少年だけでも、何とか助かってほしいという願いの現われだったのかもしれません。
市村鉄之助は、土方の命に従い、函館を脱出。
新政府軍の包囲網を見事突破し、6月、日野の佐藤彦五郎氏宅へたどり着き、託された土方の遺品を、その家族へと手渡したのでした。
↓土方が鉄之助に託した愛刀、和泉守兼定の詳細な情報についてはこちら↓
土方歳三の辞世の句
新政府軍による函館総攻撃が始まったのは、明治2年5月11日のことでした。
その戦闘の最中、馬上で戦闘の指揮を執っていた土方は敵の銃弾に倒れ、討死しました。
亡骸は、五稜郭に埋葬されたといわれています。
小島守正氏が記した『両雄逸事』には、土方歳三の辞世の句が次のように記されています。
よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東の君やまもらむ
小島守正氏は、武州多摩郡小野路村の小島家21代目当主。
20代当主の小島鹿之助氏が、試衛館時代の近藤たちと親しくしていた人物で、近藤たちが京に上り、新選組を結成した後もその交流は続いていました。
小島鹿之助氏「両雄士伝」を、そしてそれを補う「両雄逸事」を小島守正氏が作成しました。
土方歳三の墓と戒名
土方歳三の墓所は、東京都日野市石田の石田寺にあり、同寺には、記念碑もあります。
また、土方歳三の名が刻まれている慰霊碑として
- 東京都北区滝野川7丁目の寿徳寺境外墓地にある新選組の慰霊碑
- 荒川区南千住1丁目の円通寺にある「死節之墓」
- 福島県会津若松市東山町石山の天寧寺の慰霊碑
- 北海道函館市船見町の称名寺にある慰霊碑
- 函館市若松町の「土方歳三最期之地」碑
などがあります。
戒名は3つの寺より授けられていて、
- 歳進院殿誠山義豊大居士
- 広長院釈義操
- 有統院鉄心日現居士
といいます。
ちなみに、函館政府の閣僚8名の内、戦闘で討死したのは唯一、土方歳三のみでした。
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