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沖田氏縁者

慶応3年4月26日、ひとりの身元不明の女性が死亡し、新選組の菩提寺ともいえる光縁寺に葬られています。

墓碑銘は「沖田氏縁者」。
戒名「真明院照誉貞相大姉」。

彼女は一体、何者だったのでしょうか?

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謎の女性「沖田氏縁者」

「縁者」という表現だけでは、総司との関係がいまいちハッキリしませんが、血縁の人間でなかった以上、恋人であった可能性も否めません。

「大姉」という戒名から、成人女性で、しかもそれなりに地位のある人だったことが伺えますが、なぜそんな地位のある女性が身元不明で、ただ「沖田氏縁者」として葬られることになったのか…。

彼女は総司の恋人だったのでしょうか。
ちなみに二人の戒名は、格も同じ、使用されている文字も似通っていて、二つ並べると夫婦の戒名のようにも見えます。

総司の戒名「賢光院仁誉明道居士」
女性の戒名「真明院照誉貞相大姉」

もしこの女性が総司の恋人であったなら、総司はこの女性と死に別れたことになります。
ここでも総司の恋は悲恋に終わってしまったのでしょうか…。

墓碑銘の「沖田氏」は本当に沖田総司なのか?

慶応元年4月に、沖田承之進という人物が入隊しており、それがこの議論の元になっているようです。

しかし、結論から言うと、「沖田氏縁者」の沖田氏は、やはり総司のことだろうと思われます。

根拠は2つ。

まず一つ目は、光縁寺の過去帳である「往詣記」です。
新選組の菩提寺とも言えるほど、多くの新選組隊士の埋葬がなされた光縁寺において、沖田氏といえば、新選組大幹部であった沖田総司であると考えるのは、ごく自然なことと言えるでしょう。

同時期に沖田姓の檀家が複数あれば、それぞれを識別できるように記載したはずですが、「沖田氏縁者」の一例を除いて、沖田姓の人物の埋葬記録はありません。

「沖田氏縁者」が埋葬された時期も、新選組のが京都で活動していた期間内のことです。

そして、もうひとつの根拠は、議論の元となった沖田承之進の、新選組での活動期間です。

承之進は元治元年4月、江戸での隊士募集の際に入隊し、上洛名簿にその名が記されていますが、なんと、そのたった2ヵ月後に作られた隊士名簿、英名録には名がないのです。
2ヶ月の間に離隊したようです。

「沖田氏縁者」が埋葬される3年も前に、ほんの一時期、新選組に在籍しただけの隊士・沖田承之進。
その承之進が、自分の関係者を、わざわざ脱退した新選組の菩提寺で葬るでしょうか?

もし仮に、沖田承之進が関係者を光縁寺に埋葬したのだとしても、この寺で沖田氏といえばまず沖田総司が連想されることは、容易に想像が付きます。

総司とは区別が付くように墓碑銘を刻むはずではないでしょうか。

上記のことから、「沖田氏縁者」の沖田氏は、総司である可能性は極めて高いと考えることが出来ます。

そもそも、沖田総司って誰だっけ?という方は、「沖田総司の基本情報」へどうぞ!

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