島原の遊郭「角屋」。
そこは、日々戦いに明け暮れる新選組隊士たちが頻繁に足を運び、憂さを晴らしたり、疲れを癒したりした場所です。
新選組総長・山南敬助も、足繁く「角屋」に通ったひとりでした。
山南は、そこでひとりの遊女と恋に落ちます。
その遊女の名は、明里。
年のころは21~22。とりたてて美人というわけではないけれど、とにかく上品な女性で、まず中流以上の武家の女性だと言っても通るほどだったと言われています。
島原遊女にはランクがあり、
となるのですが、明里さんは、上から2番目のランクである「天神」でした。
侍と遊女の恋
温厚博識な人柄だった山南と、気品があり、さも思慮深い女性像を持つ明里さん。
いかにもお似合いという感じですが、実際のところ、遊女とそのお客が、本気の恋に落ちることって、あるものだったのでしょうか?
遊郭は、男性客が擬似恋愛を楽しむための場所です。
遊女が囁く愛の言葉や恋文(艶文)は、いわば営業ツール。
請け出して一緒に暮らしているような状態ならいざ知らず、大勢いるお客の中の一人、という立場では、そう簡単に「自分だけが彼女にとって特別だ」などと、信じ込めるものではありません。
逆もまた然りです。
お客が愛の言葉を口にしたからと言って、プロである彼女たちが、その言葉を易々と鵜呑みにはできませんよね。
そんな事情もあってか、時に遊女は、髪を切る、爪を剥ぐ、指を切る、相手の名を刺青する…という過激な手段でもって、愛する人に本気の証を立てたそうです。
(すぐ落ちる刺青や、作り物の指、自分以外の人間の指や爪などを使うこともあったようですが)
山南と明里さんが、どのようにして愛をはぐくみ、遊女と客の関係から、本物の恋人同士の関係へとステップアップしていったのか、具体的には分かりません。
しかし、伝え残る山南の人柄はどこまでも理知的であり、言動は誠実で爽やかです。
真剣に向き合えば、信じるに足る人だと感じるのは、そう難しいことではなかったのかもしれません。
明里さんもきっと同じでしょう。
苦界にあってなお「上品」と称されるほど、自分をきちんと律することの出来る人柄が、「彼女なら」と山南に思わせたのではないでしょうか。
山南切腹
愛し合う山南と明里さんを永遠に引き裂く事件は、唐突に起こりました。
山南が、隊を脱したのです。
山南は、自分が脱走する旨をご丁寧に書置きして出て行きました。
そして、逃亡中とは思えないほどノンビリと移動し、大津で沖田総司に捕まりました。
しかも追手である沖田に、わざわざ自分から声を掛けたといいます。
ちなみに、脱走した山南の追手は、沖田総司ただ一人でした。
これはおそらく、近藤や土方、その他新選組上層部の、
「捕まったら切腹だ。それならいっそ逃げ果せてくれ」
という想いの表れでしょう。
北辰一刀流を修めた山南が相手なのですから、本気で捕縛する気があれば、もっと大規模な追跡部隊を編成したはずです。
そんな仲間たちの願いもむなしく、山南は沖田と大津で一泊し、翌日、帰営。
隊規に則って、切腹が言い渡されました。
山南が隊を脱した理由については諸説ありますが、どれも憶測の域を出ません。
なぜなら、いくら「わけを話してくれ」と沖田や近藤が懇願しても、山南が頑として理由を語らなかったからです。
原田や永倉が秘密裏に逃げるよう手配しても、山南は逃げませんでした。
格子越しの、最期の逢瀬
山南が切腹するとの報せを聞いて、驚いて屯所に駆けつけた明里さん。
窓の外から格子を掴み、「山南はん…!」と何度か小さく叫ぶと、中の障子がそっと開き、山南が顔を出しました。
ふたりの最期の逢瀬は、ほんの僅かな時間、格子越しに見つめ合い、少ない言葉を交わしただけで終わりました。
再び静かに閉じられた障子の向こうで、山南は作法通りの見事な切腹をしました。
介錯人は、沖田総司。
元治2年(1865年)2月のことでした。
実は、彼女が山南切腹時に屯所に来たと言う話は、永倉が残した「浪士文久報国記事」には記されていません。
そのため、これは子母澤寛先生の創作では…という説もあります。
実際、彼女がその時まだ遊里にいたのであれば、駆けつけるという行為自体出来ません。
(遊女は年季が明けるまで、簡単に大門の外に出ることは許されませんでした)
しかし、明里さんがすでに落籍され、山南の休息所で一緒に暮らしていたという説もありますから、それであれば、報せを受けた彼女が山南の元に駆けつけないはずはないでしょう。
これから腹を切らねばならない山南にしてみれば、切腹の直前に、この世に最も未練を感じさせる恋人が目の前に現れるのは、辛い事です。
しかし、明里さんの心中を思えば、お別れもなしに、突然山南が亡くなるよりは、一目でも逢ってお別れできる方が良かった…かもしれません。
山南は、新選組の菩提寺である光縁寺に埋葬されました。