ここでは、斉藤一の2度目の結婚相手にして、生涯を添い遂げた女性、高木時尾さんについてご紹介します。
お嬢様育ちの女らしさと、武家の妻女の豪胆さ
斉藤一の2度目の結婚は、明治7年です。
妻の名は、高木時尾。
時尾さんは、会津藩大目付・高木家の長女で、幕府が倒れてさえいなければ、由緒正しい武家のお嬢様、という身分の人でした。
戦争が起こる前は、会津藩主・松平容保の姉君である、照姫付きのご祐筆でもありました。
また、時尾さんは、かの有名な山本八重さんとも強い関わりのあった人物です。
会津戦争の際、八重さんが夜襲に出撃する直前、八重さんの髪を切ってあげたのが、時尾さんでした。
2013年の大河ドラマでも紹介されていたエピソードですが、実話だったそうです。
八重さんのように銃を携えて戦う、というわけには行きませんが、時尾さんも、会津の篭城戦では、負傷者の救護に当たるなどして奮闘しました。
また、会津戦争の戦死者の亡き骸は、官軍によって半年もの間埋葬することが許されず、野晒しになっていたのですが、やっと埋葬許可が出ると、時尾さんはその亡き骸の埋葬にも尽力したといわれています。
死後半年…、想像するのも恐ろしいですね…。
時尾さんは、とても女らしい人だったそうですが、やはり武家の娘さん。
根性が据わっています。
藤田五郎の藤田は、時尾の母方の姓
戦後、会津の人々は、斗南へ移住させられることになるのですが、ここでは食糧難や、厳しい気候のため、とても苦しい生活を強いられることとなります。
餓死者も続出したそうです。
時尾さんも、数年、この斗南の地で暮らしました。
明治7年ごろ、東京へと移住します。
同じ時期に東京へと移り住んでいる斉藤一と結婚したのはこの頃です。
斉藤は、戦後、山口二郎、一戸伝八、などと次々に名を変えていますが、時尾さんと結婚した頃から、藤田五郎を名乗っています。
藤田五郎の名は、松平容保公に与えられたものだとか。
藤田は時尾さんの母方の姓なので、その辺りから名づけたのかもしれませんね。
仲人は会津の元・殿様やご家老たち
ちなみに、斉藤と時尾さんの結婚の仲人は、元は会津のお殿様だった松平容保公が上仲人、同じく会津藩家老だった佐川官兵衛と山川浩、倉沢平治右衛門が下仲人を務めています。
そうそうたる面子ですね。
高木家の娘の結婚だから、という理由もあるのでしょうが、やはり斉藤と会津との関わりはとても強いように感じます。
もうこうなると、新選組で名乗っていた斉藤一という名も、本名なのかな?と疑いたくなっちゃいますね(笑)
ともあれ、時尾さんはその後、斉藤…もとい藤田五郎との間に3人の子をもうけ、大正4年、藤田五郎が自宅で病没するまで、添い遂げるのでした。