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原田左之助の妻、まさ

新選組幹部の多くは、京の地に「休息所」を持ち、そこに妾を囲っていました。
いわゆる「現地妻」です。
しかし、そんな幹部達のなかでは珍しく、恋人を妾などにせず、正式に妻として迎えた幹部がいました。
十番隊長・原田左之助がそれです。
伝え残される原田の性格は、非常に短気で荒っぽく、物事を深く考えない性格だったとされていますが、この話からは、原田の意外に誠実で情に厚い人柄をうかがい知ることができます。

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意外に誠実?!原田左之助

原田左之助の妻の名は、まさ。
まささんが、原田と結婚したのは、新選組が壬生から西本願寺へ移ってまもなくの、慶応元年(1865)春頃だったといわれています。
まささんの実家は、名字帯刀御免の由緒正しい家柄で、彼女が単なる休息所の女(妾)にとどまらず、正式に原田の妻として迎えられたのも、これによる所が大きいのかもしれません。

二人は本願寺筋釜七条下ルに所帯をかまえ、結婚した翌年には長男・茂も誕生。
絵に描いたように幸せな日々を送っていました。

原田はこの茂をとても可愛がり、「将来は立派な武士に育ててやる」と意気込んでいたそうです。
妻を大切にし、我が子にも惜しみない愛情を示す、正に理想の父であった原田は、また非常に甲斐性のある夫でもありました。

当時彼が、生活の為にまささんに月々渡していた金額は、一定してはいなかったものの、月十両から十五両という金額で、それだけでも充分贅沢に暮らせる金額でした。
その上、3度の食事は隊の賄い方が炊き出しで配ってくれるというのです。
暮らし向きはかなりラクだったのではないでしょうか。

生まれてくる命、死に行こうとする命。
死地に赴く夫を見送った妻まさの悲痛な想い

結婚してから2年半の月日が過ぎた頃、夫婦に別れの時が訪れました。
新選組が、不動堂村の屯所を引き払い、伏見に布陣することになったのです。
有名な、鳥羽伏見の戦いの直前のことです。

出発の前日、原田は二百両という大金を持って慌しく家に帰り、
「当座の暮らしの資金だ」
と言ってそれをまささんに手渡しました。

「俺に万が一の事があった時は、お前が茂を立派な武士に仕上げてくれ。
それから殊にお前はからだに気をつけるように」
何度も何度もそう繰り返し、また慌しく隊へと戻っていったといいます。

この時、まささんのお腹には原田の二人目の子が宿っていました。
それも、今日明日にも生まれようかという時です。
まささんは当時で二十歳そこそこ。
身重の身体に幼子を抱え、頼りの夫は死地へ旅立って行く…。
どれほど不安だった事でしょう。

これが、夫婦の今生の別れとなりました。

その後、原田たち新選組は、鳥羽・伏見で敗走したのち、甲陽鎮部隊で甲州勝沼の戦いに参戦します。
しかし、これも敗戦。
もはや、幕府軍と新政府軍の装備と兵力の差は歴然でした。

明治元年3月になると、原田は近藤と袂を分かち、新選組を脱盟してしまいます。
脱盟後は、永倉新八と共に靖共隊を結成しましたが、これもなぜか脱退し、単身江戸に引き返しました。
この理由を、永倉は「妻子への未練で、口実を設けて江戸に帰ったのだろう」と言っていますが、どうやらそうではなかったらしく、原田は、最終的に江戸で彰義隊に参加し、その年の5月17日、敵の銃弾により戦死しました。

一方、まささんも原田と別れてからは、薩長を主とする新政府軍に、厳しい取り調べを数度に渡って受けるなど、辛い境遇に身を置きました。

しかし、彼女にとって最も辛かったのは、原田と別れてから僅か5日後に出産した次男が、生後まもなくして亡くなってしまったことでしょう。
生まれてすぐに神に召されたこの赤子は、「禅雪童子」という戒名を授けられ、まささんは、なんとかしてこのことを原田に伝えようと手を尽くしましたが、もう彼がどこにいるのかさえ判らないような有り様だったそうです。

そして、まささんが、原田の死を知ったのは、明治2年~3年のことでした。

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