PR

銃を携え国を守った女傑・新島八重

新島八重さんは、皇族以外の女性で初めて勲六等宝冠章を受勲した女性です。

若い頃は銃を持って戦場に立ち、多くの敵を倒しました。
戦後は夫・新島襄の同志社設立を支え、襄の死後は看護婦として従軍しました。
40名もの看護婦たちをまとめあげ、敵味方無く怪我人を世話し、看護婦達の地位向上にも尽力します。

「幕末のジャンヌ・ダルク」
「ハンサムウーマン」
「日本のナイチンゲール」

そんなふうに称される新島八重さんの生涯とは、どのようなものだったのでしょうか。

PR

会津武士・山本権八の娘、八重

八重さんは弘化2年11月3日(1845年12月1日)、会津藩の砲術師範であった父・山本権八と、母・佐久の三女として生まれました。
次男と長女と次女は早世してしまったため、長男・山本覚馬、弟の三郎の三人兄弟で育ちます。

幼い頃から周囲が驚くほど力が強く、米俵(60kg)を軽々持ち上げるほどで、女性でありながら銃の扱いを学びました。

ちなみに兄の覚馬は、かの「管見」を作成した人物です。
「管見」とは覚馬が記した建白書で、政治、経済、教育等22項目にわたり「日本は将来こうあるべき」という意見を記したものです。
そこには女性教育の必要性なども説かれおり、先見性に優れたその内容は明治政府の政策の道しるべともなりました。
古い価値観のはびこる当時の会津にありながら、八重さんが銃や西洋戦術を学ぶことを許されたのは、おそらくこの兄・覚馬のおかげでしょう。

戦後も、覚馬の先進的な考え方は八重さんの人生に大きく影響を与えていきます。

八重の最初の夫・川崎尚之助

八重さんの最初の夫・川崎尚之助は、出石藩出身の洋学者でした。

大変優秀な人物で、江戸で山本覚馬と知己となり、その縁で会津藩藩校・日新館の蘭学所の教授を勤めることになります。
また、鉄砲・弾薬の製造についての指南、指揮も務めました。

八重さんとは慶応元年(1865年)に結婚。八重さんは満20歳、尚之助は満29歳でした。

尚之助は会津戦争では会津の大砲方の指揮官として働きます。
妻の八重さんは鉄砲隊を指揮していました。

実際に会津戦争が始まり、新政府軍の凄まじい近代兵器の威力を目の当たりにするまで、会津の人々は、「鉄砲は足軽が使うもの」「武士は刀で戦うものだ」と、どこかで鉄砲を軽視していました。
そんな中、鉄砲や大砲の重要性を誰より理解していた八重さんと尚之助は、お互いにとっての良き理解者だったのではないでしょうか。

尚之助は会津の生まれではありませんでしたが、会津戦争では最後の最後まで会津のために戦い、戦後は斗南のために奔走しました。
優秀なだけでなく、義や情にも篤い人物であったことが伺えます。

避けられなかった会津戦争

会津は新政府軍に対して、幾度も幾度も恭順の意を示します。
また奥羽25藩も、連名で会津救済を新政府に願い出ました。
客観的に見て本当に会津が逆賊だというなら、こういう動きは起こらなかったはずです。
それでも新政府軍の会津侵攻は止まらず、東北の地には次々と戦火が上がりました。

そして、とうとう会津城下にも新政府軍はなだれ込み、会津戦争は篭城戦に突入します。
八重さんたち一家も、入城しました。
城に入った女性や子供らは、その後一ヶ月にも及ぶ篭城戦を戦うことになるのでした。

会津戦争で自刃した200名もの女性達

一方、城に入らなかった女性や子供は、薩長軍に対して自刃という形で無言の抗議をしました。
城下で自ら命を絶った女性の数は200名以上にのぼったそうです。

会津の家老・西郷頼母の妻や娘達もまた、自刃の道を選びました。
西郷頼母の妻・千重子さんは、下記のような辞世を残しています。

なよ竹の 風にまかする 身ながらも たわまぬ節は ありとこそきけ

凄惨な女性達のその死に様は、さすがの新政府軍も大いに士気を削がれたといいます。

鉄砲隊を指揮し、夜襲に参加した八重

会津には、薙刀の名手としてその名を馳せた中野竹子さんらを中心にした婦女隊(娘子隊)と呼ばれる女性のみで結成された部隊がありましたが、八重さんはこの部隊には所属しませんでした。

八重さんには、分かっていたのです。
もはや、薙刀では会津を守ることは出来ないと。

鶴ヶ城に入った八重さんは、鳥羽伏見の戦いでなくなった弟・三郎の装束を身に纏い、鉄砲隊を指揮して戦いました。

また、髪を切り、夜襲攻撃などにも参加しています。
夜襲に際して、八重さんに頼まれて彼女の髪を切ってあげたのは、後に新選組三番組隊長・斉藤一の妻となる時尾さんでした。

敗戦、そして尚之助との別れ

明治元年9月22日11月6日、新政府軍の圧倒的な武力の前に、会津はとうとう降伏します。
その結果、会津藩主・松平容保公は江戸に送られ、会津藩士たちは斗南(現・青森県むつ市)へと送られることになりました。
討死した会津藩士の遺体は埋葬することすら許されず、腐乱するまで放置されたと言います。
屈辱の敗戦でした。

尚之助と八重さんは、この敗戦を機に別々の場所で暮らすこととなります。

女性や子供、年寄りはそのまま放免となり、中には高木時尾さんのように戦後を斗南で暮らした女性もいますが、八重さんは斗南には行きませんでした。
敗戦から明治2年までの動向は不明ながら、明治3年の頃、一年ほど米沢で過ごしています。
米沢での八重さん達の暮らしの面倒を見てくれたのは、尚之助の教えを受けた米沢藩士だったそうですから、ふたりが別れて暮らすことになったのは、あるいは尚之助の指示だったのかもしれません。

斗南の生活が苦しいものになることは容易に予想できることですし、八重の義姉・うらの娘はまだ幼く、母・佐久は老齢でした。
他に頼れるところがあるのなら、暮らしが落ち着くまで離れて暮らすという判断もありえることです。

しかし、ここで分かれた二人がその後夫婦としての時間を過ごせる日は、二度とやってきませんでした。

あえて妻はいないものとした、尚之助の愛

尚之助は戦後、斗南の飢餓を救うために外国商人との米の商取引に奔走します。
しかし、仲買人が米を買い付けるための資金を持ち逃げしてしまったため、相手の外国人から訴訟を起こされ、詐欺事件の被告人となってしまいました。

その賠償金は、なんと三千両。
もし裁判に負けてそんな巨額の賠償を背負うことになれば、ただでさえ困窮を極める斗南の人々は死に絶えてしまいます。

尚之助は、この取引はすべて自分が独断で行ったことだと証言し、すべての責任をひとりで背負い込みました。
そして、東京で裁判を受けている最中、肺炎のためひっそりと世を去ったのです。
まだ38歳の若さでした。

この時、尚之助の戸籍に、妻・八重の名はありませんでした。
長期に渡る裁判、もしその裁判に敗訴した場合の莫大な賠償金を考えれば、尚之助が八重を自分の戸籍に記載し、傍に呼び寄せることなど出来るはずもありません。
他人になることだけが、尚之助が八重のためにしてやれる最後の優しさだったのかもしれません。
結局八重さんと尚之助が共に過ごした日々は、わずか3年あまりでした。

新島襄との出会い

八重さんは明治4年(1871年)、京都府顧問となっていた兄・覚馬を頼って京都へ移り住みます。
それから数年間、女子教育の場である京都女紅場の権舎長・教道試補として仕事をしました。

そんな暮らしの中、八重さんは二人目の運命の人に出会うことになります。
その相手は、兄・覚馬の元に出入りしていた宣教師・新島襄。
同志社大学を設立した人物です。

襄は自分の妻となる女性に、従順さは求めませんでした。
襄が探していたのは、平等で、対等な関係を築ける自立したパートナーです。
そもそも、どこで命を落とすかも知れない宣教師という職業柄、夫無しでは生きては行けないようなヤワな女性と一緒になれるはずもありません。

その点、八重さんの持つ逞しさは、まさに襄が求める理想の女性像にピッタリだったのでしょう。

襄は、アメリカの友人に宛てた手紙の中で、八重さんの事を下記のように記しています。

彼女は取り立てて美人ではありませんが、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です。

襄と婚約したことで、八重さんは結果として勤めていた京都女紅場を解雇されました。
当時、キリスト教への偏見はまだまだ強く、特に寺院仏閣がひしめく京都という土地においては、宣教師への風当たりは相当に強いものでした。
襄と一緒になるということは、八重さんもその荒波に一緒に飛び込む事を意味していましたが、八重さんは持ち前の強さで、襄の同志社設立を支えていきます。

井戸の上の八重

暑い夏の日、井戸の上に板を渡し、その上で涼みながら縫いものをするという危ない真似を平然としていた八重さんを見て、襄がひどく驚いたという話が残っています。
襄は思わず、覚馬に「危ないじゃないですか、やめさせないのですか」と問いますが、覚馬は「アイツはどうも危ない事をしていけねぇ」と言いつつ、注意すらしませんでした。
それはおそらく八重さんが、本当に危険な状況はどんなものか、それに遭遇した時はどうすれば良いのかを良く知っているからで、覚馬もそれを分かっていたからではないでしょうか。

新島八重=新島ぬえ?

襄より先に車に乗り、襄を呼び捨てする八重の姿には、当時、多くの人が驚きました。
人によっては八重さんを悪妻と見る人もいたようです。
同志社の学生だった徳富蘇峰氏も、八重さんに鵺(ぬえ)というあだ名をつけ、批判しました。

鵺(ぬえ)というのは、頭は猿、手足は虎、体は狸、尾は蛇、声は虎鶫(とらつぐみ)に似ているといわれる想像上の怪物のことです。
和服に靴を履き、西洋の帽子を被った八重さんの姿を鵺と皮肉って付けたあだ名でした。

ただ、徳富蘇峰氏は最初こそ八重さんと対立していたものの、襄の死後は一転、八重さんのことを襄の形見として大切に扱い、生涯に渡って援助し続けました。

また、八重さんの事を世間の人がどう言おうと、当の八重さんと襄はとても仲が良く、幸せに暮らしていたそうです。

襄の死「グッドバイ、また会わん」

八重さんと襄の結婚生活は14年続きました。
しかし、ふたりの結婚生活は明治23年(1890年)1月23日、襄の死によって終わりを告げることとなります。

襄の臨終には、八重さんと共に徳富蘇峰氏、小崎弘道氏らが立ち会いました。
死因は急性腹膜炎。最期の言葉は「狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん」でした。
享年46歳、八重さんはこの時45歳でした。
襄の葬儀には4,000人もの人が集まったそうです。

従軍看護婦となった新島八重

襄の死から三ヶ月が経った明治23年(1890年)4月26日、八重さんは日本赤十字社の正社員となります。
そして明治27年(1894年)の日清戦争時には、広島の陸軍予備病院で4か月間、篤志看護婦として従軍しました。

八重さんは40人もの看護婦を取締役としてまとめ上げ、赤十字の精神に則って敵味方なく怪我人を看護活動を行います。

かつては戦場で銃を持って戦った八重さんが、30年近い歳月を経て、「敵味方無く看護すべし」と考えるようになった心境の変化。
これには彼女の激動の生涯の中での様々な出会いと別れ、喜びと悲しみ、苦悩、学びが影響しているのでしょう。

八重さんは看護活動の傍ら、看護婦の地位向上も訴えました。

明治29年(1896年)、その時の功績が認められ、八重さんに勲七等宝冠章が授与されます。
その名誉は、八重さんだけでなく戦後ずっと賊軍の汚名を着せられて苦しんだすべての会津の人々にとっての喜びでした。

なお、襄が亡くなった二年後には兄・覚馬が、そしてこの年、八重さんのお母上である佐久さんがこの世を去っています。

その後、篤志看護婦人会の看護学修業証を得た八重さんは看護学校の助教を務め、明治37年(1904年)の日露戦争時にも、大阪の陸軍予備病院で2か月間、篤志看護婦として従軍しました。
そしてその功績により、勲六等宝冠章を受勲しました。

八重さんが亡くなったのは、昭和7年(1932年)6月14日のことです。
死因は急性胆嚢炎、享年87歳。

八重さんの葬儀は、徳富蘇峰氏の協力により「同志社社葬」として執り行われました。
襄の時と同じで、参列者は4,000人にも登ったそうです。

激動の生涯を、その時々、自分に出来る精一杯の事をして生き抜いた、まさにハンサムな生涯でした。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存
PR