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土方歳三 日野時代

京に上ってからの土方歳三は、常に「新選組の鬼副長」であり続けました。

時に仲間の血を流すことも厭わない非情さを見せたり、
捕らえた反幕派の人間を、恐ろしい拷問にかけたり、
戦の最中、敵の強さに恐れをなして逃げようとした部下を斬り殺したり…。

また、自らにも、戦いを止める事を決して許しませんでした。

たとえ主君・徳川家や恩ある会津が新政府軍に降参しても、新選組局長近藤勇が処刑されても、もういいや、もう止めよう、とはなりません。

土方歳三は、その命が尽きる最期の瞬間まで、激しく戦い続けました。

新選組副長としての土方歳三を見ると、とにかく初志貫徹、こうと決めたら必ずやり抜く、という人物像が浮かんできますが、新選組結成前、つまり日野で過ごしていた頃の土方歳三は、新選組時代とはまた少し違っていたようです。

ここではそんな日野時代の土方歳三についてご紹介します。

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奉公先を2回もクビになる問題児

土方歳三は、天保6年(1835年)5月5日、武蔵国多摩郡石田村の豪農の家に、10人兄弟の末っ子として生まれました。

父は土方伊左衛門隼人(のち隼人義諄)さん、母は恵津さん。

しかし、歳三が生まれた時には既に父は亡くなっており、母も天保11年(1840年)に亡くしたため、歳三は次兄・喜六夫婦の手によって育てられました。

土方家は近隣から「お大尽」などと呼ばれるほどの豪農ではありましたが、原則として長男以外は、家を継ぐことはできません。
次男以降は、それぞれに自立の道を見つけるしかないのです。

そんなわけで、歳三も11歳になると、江戸上野の松坂屋という呉服店へ奉公に出されました。
しかし、これは長続きせずすぐに実家に帰ってきてしまいます。

17歳の時には大伝馬町の呉服店へと奉公に出されますが、今度は奉公先で、女性を妊娠させるという騒動を起こす始末。

さすがに、それ以降は奉公は諦めて「石田散薬」という家伝薬の行商を始めます。
しかし、実はこれも別に歳三の本当にやりたい事ではなかったらしく、実際は行商をしながら、各地の剣術道場で他流試合を重ね、剣の修業をしていました。

奉公は続かず、行商にも身が入らない、なんだかふわふわ生きている歳三。

この少年が、のちに数百人もの軍勢の総督として戦闘の指揮を執る人間になるとを、この時、誰が予想していたでしょう。
もしかしたら、歳三自身にもそんな未来のビジョンはなかったのかもしれません。

天然理心流、そして試衛館の仲間達との出会い

歳三は嘉永4年、16歳のころに、近藤勇と出会います。

歳三の姉・のぶさんの結婚相手である佐藤彦五郎氏が、天然理心流に入門しており、自宅の一角に道場を開いていて、彦五郎氏宅へ良く出入りしていた歳三は、その縁で勇と知り合うのでした。

とはいえ、歳三の剣は、天然理心流で学んだものというよりは、多くの流派から自分にあったものを臨機応変に取り入れたほぼ我流でした。
歳三が正式に天然理心流に入門したのは、勇との出会いから8年が過ぎた、安政6年(1859年)になってからのことです。

近藤勇と土方歳三が新選組として活動した期間は約5年程度しかありませんでしたが、出会ってから死に別れるまで、二人には17年にも渡る付き合いがあったのですね。

天然理心流門人としての土方歳三

土方歳三は天然理心流では、目録を取得しています。
沖田総司や、他の試衛館の面々が持つ有名流派の免許皆伝などの肩書きに比べると、若干見劣りしてしまうような気もしますね。

ただ、後に新選組が結成された時、勇に次ぐ地位である副長に就任しても周囲から不満が出なかったところを見ると、剣の腕も確かだったのでしょう。

万延元年8月に発行された剣術人名録で日野の剣客として掲載されていますし、同年9月30日に行われた天然理心流の府中六所宮献額の際には、境内で型試合を奉納しています。

また、文久元年に行われた近藤勇の天然理心流4代目宗家襲名披露のための野試合では、赤軍の旗本衛士を務めました。

顔が良いから目立つポジションに立たせた、という見方もできなくはありませんが(笑)、やはり剣の腕が見劣りするようでは、そうした役回りが振られることもなさそうな気がします。

ちなみに、小島鹿之助氏の日記によると、同年11月に土方歳三は大病を患っていたそうです。
沖田総司の死因と同じ、労咳であった、との説もありますが、日記の文言は
「石田歳蔵、大病のよしなり」
とあり、労咳と記されていたわけではありません。

ただ、当時は労咳の人間が家族から出たら、それを周囲に伏せることが多かったため、小島家で歳三の病名を把握していなかったとしても不思議はありません。
真偽の程は不明、ですね。

上洛を決意

文久3年歳三は、勇達と共に幕府が募集する将軍警護のための浪士隊に参加する事を決意します。

上洛にあたって、小島鹿之助氏から刀を借用したり、自分のそれまでの俳句を集めた「豊玉発句集」を編んだりして、着々と上洛の手筈を整えました。

(小島鹿之助氏って本当に、新選組結成前から新選組が歴史のなかで逆賊呼ばわりされるようになったあとまで、新選組の面々を世話していた方なんですね)

ちなみに、長兄の為次郎氏によって引き合わされ、結婚直前まで話が進んだ三味線屋の看板娘、琴さんとの縁談も、結局は結婚に踏み切らず、婚約(保留)と言う形で凍結させてしまっています。

武士として生きると決めた土方歳三が、この先どのような人生を送っていくかは、多くの方が知る通りです。

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