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公武合体の生贄、皇女和宮

1853年の黒船来航以来、その弱体振りを露呈していた徳川幕府は、何とか幕藩体制を維持・強化しようと、公武合体論を打ち立てました。

その公武合体のメインとも言える政策が、皇女・和宮の、徳川将軍家への降嫁でした。

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意外に質素な暮らしぶりの、和宮さま幼少時代

和宮さまは、弘化3年(1846年)7月3日、第120代天皇である仁孝天皇(にんこうてんのう)の第8皇女として生まれました。
とはいえ、生まれた時には父帝はすでに亡くなっており、和宮さまが育ったのは典侍の君であった母、橋本経子さんの実家です。

この当時、公家の生活はどこも厳しいものでした。

橋本家もその例外ではなく、朝廷から幾許かの養育費は下賜されていたものの、それは決して十分な額とは言えず、幼少期の和宮さまは、思いのほか質素な暮らしをしていたようです。

蝶よ花よと贅沢三昧に育った姫君なのかと思いきや、少々意外な幼少期ですね。

公武合体の生贄となった薄幸の宮姫、悲壮な決意

1860年4月、将軍家への降嫁話が持ち上がったとき、まだ年端も行かぬ少女だった和宮さまは当然とても嫌がったそうです。
生まれ育った京を離れて、異人のいる江戸へ行くなど、想像を絶する恐ろしさだったでしょうから、無理もありません。

しかも当時、和宮さまにはすでに歴とした婚約者がいました。
5歳の時、兄である孝明天皇の命により婚約が決まった有栖川宮熾仁親王です。

孝明帝も和宮さまの意を汲んで何とか庇おうとしてくれるのですが、国内を安定させること、攘夷を決行することなど、政治的な背景を考えると無碍にこの動きを一蹴することもできません。最終的に、前年に生まれた自分の娘である寿万宮を代わりに降嫁させる、と言い出しました。

自分が降嫁話を蹴れば、自分よりも更に年少の寿万宮が犠牲になる…

それを聞いた和宮さまは、とうとう降嫁を承知するより他、なくなってしまうのでした。

和宮VS天璋院!嫁姑問題

約束違反に無礼な扱い
「大奥に入っても暮らしは万事、御所風」のはずが…!?

降嫁話が持ち上がってから、1年7ヵ月後の1861年11月。
和宮さまはとうとう江戸城内の清水屋敷に到着しました。

しかし、ここから江戸城の大奥に入るまでに、実に1ヶ月近くのも時間を要しています。

これは、降嫁の条件として和宮さまが提示した
「大奥に入っても、暮らしは万事御所風の流儀を守ること」
という約束について、大奥側で調整が難航したためと言われています。
実際大奥に入っても、和宮さまのその要望は、あまり守られていませんでした。

そればかりか、あてがわれた部屋は暗く狭い、その上、大奥の女たちと折り合いが悪く和宮さまが涙するようなこともあったようです。

なにより酷かったのは「父帝・任孝天皇の回忌ごとに上洛させること」という約束があったにも関わらず、明春に執り行われるその回忌への出席を「まだ江戸の暮らしに慣れていないのだから」と、取り止めるよう要請されたことでした。

また、和宮さまと姑である天璋院が初めて対面した際、こんなことがありました。
天璋院は自分が上座に座布団つきで座り、和宮さまの席を下座に、しかも座布団もなしに設えていたのです。

いくら嫁姑の立場であるとはいえ、これは無礼と言われても仕方がありません。

実は和宮さまは、降嫁に先駆けて内親王宣下を受け、内親王としての身分を得ています。
これは、夫である将軍・徳川家茂公より高い身分です。
こうしたことは、和宮さま付きの女官の報告によって孝明帝の知るところとなり、問題にもなったようです。

後に、幕府は和宮さまの呼称を「御台様」から「和宮さま」に改める旨を発表しています。

大奥には大奥の言い分が…

しかし、いくら身分が上だからと言って、結婚したのに相手の家の流儀には一切従わず、実家の流儀を通させて頂きます、というのもお嫁さんを貰う立場からしたら酷い言い草に聞こえるのもわかりますよね^^;

大奥は御所ではありません。
それはどうしようもない事実です。

大奥が大奥である・・・、それは和宮さまにとっては酷いと感じることかもしれませんが、ずっと大奥で暮らしている人間にとっては当たり前のことなのです。

また、こんなこともありました。
和宮さまが大奥に入るにあたって、天璋院へ宛てたみやげ物の目録の宛名が、
「天璋院へ」
と呼び捨てになっていました。

前述の通り、身分で言えば天璋院より和宮さまが遥かに上なのですから、和宮さまにはごく当たり前のことだったのかもしれません。

しかし、結婚相手の親は自分にとっても義理の親。
これは、公家であろうが武家であろうが変わりません。
いくら身分が高くても、親を呼び捨てにして良いという道理はありません。

大奥の人間が和宮さまに辛く当たるには、それなりの理由もあったということです。

孝明帝もこのあたりのことは分かっていて、「御所風は和宮に限った特例なのだ」ということを、わざわざ和宮さま宛ての手紙で諭しています。

一寸先は光かも?!
和宮が失意の中で出会った運命の人、徳川家茂

ほぼ強制的な降嫁、そして、江戸到着早々の大奥でのトラブル。
様々な波乱を経て、1862年2月11日、とうとう和宮さまと、夫・徳川家茂公の婚儀が行われました。

泣きながら徳川家に嫁ぐことになった和宮さまですが、実はこの結婚の相手、徳川家茂公こそ和宮さまの運命の人でした。

家茂公は、とにかく根気強く、和宮さまの心を開く努力をしました。
誠心誠意彼女に接する事で、自分達二人のわだかまりは消え、ひいては朝廷と幕府の結びつきも揺るぎ無いものになると信じて。

とはいえ、家茂公も和宮さまと同じ歳の男の子(笑)だったのだから、いくら役目でも嫌いな女のご機嫌取りをそう根気強くできるものではないでしょう。
大奥には、千人もの女性が将軍のためだけにいるのです。
その気になれば女人など選びたい放題です。

しかし家茂公は、他の女性に手をつけることもなく、和宮さま一筋を貫きました。
徳川15代将軍の中で、唯一側室を持たなかった将軍です。
どこかしら和宮さまに惹かれていた部分がなければ、やはりそうはいきません。
(2代目の秀忠公も側室が無かった、といいますが、大奥に側室を持たなかったというだけで、他所の女性に子を産ませていますしね^^;)

そんな家茂公の誠実さと優しさに、和宮さまもいつしか心を開き、愛情を覚えるようになっていったのでした。

また、出会った瞬間から反目していた和宮さまと天璋院も、いつしか和解していたようです。

ある日、家茂公と和宮さま、天璋院が縁側から庭に降りようとした時、なぜか天璋院と和宮さまの草履だけが踏み石の上に乗っていて、将軍家茂公の草履が地面に落ちていたことがあったそうです。
和宮さまはそれを見て、自分は裸足のままでピョン、と地面に降りたち、家茂公の草履を踏み石に載せてあげたそうです。

和宮さまの、夫や義母への労わり、愛情が自然に溢れているような行動ですね。

しかしこれは、嫁いだ当初の和宮さまなら、考えられないことではないでしょうか。

和宮さまは、将軍より高い身分で将軍家に入り、大奥に入りながらも、御所風の暮らしをするという特例を認められた存在でした。
そして、江戸に来た当初はそれを通そうとしていました。
それは、見知らぬ人ばかりの土地で暮らす孤独な自分を守る、和宮さまの鎧だったのかもしれません。

けれど、家茂公の存在が、和宮さまに、
「もう自分はひとりじゃない。鎧は必要ない。自分が生きていく場所はここだ」
と心から思わせてくれたのでしょう。

動乱の時代に翻弄され、重責を背負う運命を課された若い二人は、束の間、幸せな時間を過ごすのでした。

家茂急逝、二度と戻らない最愛の人
「綾も錦も 君ありてこそ」

和宮さまと家茂公の幸せな結婚生活は、残念ながら長くは続きませんでした。

1866年7月20日、家茂公は遠征先の大阪で急逝します。
たった4年余りの、短い結婚生活でした。

和宮さまの元には、出発前に彼女が家茂公にねだった、みやげ物の反物だけが届けられました。
嬉しいはずの、最愛の夫からの贈り物。
しかしそれは、最愛の人の形見の品になってしまったのです。

和宮さまはその悲しみを、一首の和歌に詠み表しました。

空蝉の 唐織衣何かせむ 綾も錦も 君ありてこそ

貴方を亡くして、衣だけがあっても何になりましょう?
どんなに美しい織物も、見せたいあなたがいてこそなのに・・・
おおよそこんな感じの意味でしょうか。

この西陣織は、家茂公の供養のために袈裟に仕立てられました。
和宮さまは落飾し、名を静寛院宮と改めます。

ちなみに、1865年9月には母君が、1866年12月には兄である孝明帝が相次いで亡くなっています。

母、夫、兄を次々に失い、失意の底に沈む和宮(静寛院宮)さまの元へ、朝廷から「帰郷せよ」との使いが来ます。
帰りたくて帰りたくて仕方なかった美しい故郷。
しかし彼女は、せっかくの帰郷の許しを蹴って、江戸に、徳川家に残ることを選びました。

4年前、歴史の波に流されて泣く泣く江戸に来た和宮さま。

しかし家茂公と過ごした日々が彼女に、
「自分は自分の意思でここに居るのだ」と思わしめたのです。

時は慶応2年。徳川幕府の終焉は、もうすぐそこまで迫っていました。

和宮、命がけの嘆願!
徳川家の滅亡を目の当たりにして
生きながらえることは出来ない・・・!

佐幕派であった孝明帝の崩御により、情勢は一気に倒幕へと流れていきます。

1868年には、とうとう鳥羽伏見の戦いで薩長軍と幕府軍が武力衝突しました。これにより幕府が決定的に朝敵と認定されると、15代将軍に就任していた徳川慶喜は和宮さまに取り成しを頼みました。

和宮さまは朝廷に宛てて、次のような手紙を送っています。

徳川家が後世まで朝敵の汚名を残すことは私にとって真に残念なことです。
何卒、私へのお慈悲とお思いになり徳川家が朝敵の汚名を残さぬよう、また徳川家をお取り潰しにならぬよう、身命に代えてお願い致します。
私としては、徳川家の滅亡を目にしながら生きながらえるわけにも参りません。
そのような時は覚悟を決め、一命を惜しまぬつもりです。

しかし、その返信は厳しいものでした。
「寛大な措置は難しい。きっと徳川家の討伐が行われるだろう」

和宮さまは、今度は官軍に宛てて手紙を出します。

朝廷に対し孝を立てて生きながらえれば、徳川家に対し不義となります。
しかし徳川家への義理のために死ねば、父の帝に対し孝が立てられません。
大変当惑しております。

しかし、やはり官軍の進撃が止まることはありませんでした。
軍の総司令官は、かつて和宮の許婚だった有栖川宮熾仁親王です。
皮肉な運命でした。

とうとう3月12日、最も早く軍を進めていた中山道の官軍が、江戸から25kmの蕨に到着します。
江戸城の総攻撃は、3月15日。もう目前です。

けれど、和宮さまは諦めません。逃げもしませんでした。
今度は江戸を目の前にした中仙道の官軍の指揮官に宛てて手紙を出します。

どうか、私の心中をお察しください。
江戸へ進軍なさるのは、何卒、今しばらくご猶予下さい

この手紙を受け取った官軍の指揮官は、やっと、中仙道の板橋の宿で進軍を止めます。
慶応4年3月13日。江戸まであと10kmの地点でした。

和宮さまの動きとはまた別に、天璋院も、敵方の総大将である西郷隆盛に長い長い手紙を出しています。

こうした働きかけもあり、3月14日、官軍の指揮官・西郷隆盛と、幕府の代表・勝海舟による和平会談の場が設けられ、そこでついに江戸城総攻撃の中止が決定しました。

和宮さまの命がけの嘆願が成就したのです。

ちなみに、官軍の総司令官・有栖川宮熾仁親王と、総大将である西郷隆盛が所持していた刀は、「村正」であったといわれています。
徳川家が「災いをもたらす妖刀」と呼んで忌避していた村正を、あえて所持して戦いに挑んでいた有栖川宮熾仁親王と西郷。
彼らが、いかに本気で徳川を滅ぼしに掛かっていたかが伺えます。

和宮さまはその後、明治10年、32歳の若さでこの世を去ります。
そして、和宮さまの遺言により、家茂公が眠る墓所の隣に、和宮さまのお墓も建てられました。

これは、実は珍しいことらしいです。

それまで、将軍の墓所と正室を含む将軍の女性の墓所には格差が付けられており、同じ場所に隣接することは無かったそうです。

和宮さまの遺言もあったのでしょうが、明治天皇の叔母君であった、ということも、大きかったのかもしれません。

ここで和宮さまのお歌をもう一首ご紹介

惜しまじな 君と民との為ならば 身は武蔵野の露と消ゆとも

このお歌は最初、和宮さまが上洛する際に詠まれたものとされていたそうですが、最近の研究では、文久3年家茂公の上洛に際して詠んだものだと言われているらしいです。

しかし、個人的には夫の上洛に際して詠むにしては、内容に若干の違和感があるようにも思えるんですよね。

和宮さま本人が降嫁する際、もしくは家茂公の死後、江戸城にとどまっていた頃に詠まれたというなら、なんとなくしっくりくるのですが…。

そのほかにも、和宮さまが亡くなった際、棺に一緒に入れられたという写真は誰の写真なのか?(もう写真が古くなっちゃって、誰か判別できないそうな)とか、これまた棺に一緒に入ってた遺髪は誰のものなのか?とか、今でも色んな人が研究してるそうですよ。

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