芹沢鴨 出自の謎
「芹沢鴨の生家は、常陸国行方郡芹沢村にある、水戸郷士の芹沢家だ」 という説が、長年史実だと思われてきました。 芹沢鴨は、その芹沢家当主・芹沢貞幹の三男である、と。 しかし近年その根拠となる資料が見直され、新たな事実が発見されました。 どうやら、芹沢鴨だと思われていた芹沢貞幹の三男と、芹沢鴨は別人らしい、というのです。
「芹沢鴨の生家は、常陸国行方郡芹沢村にある、水戸郷士の芹沢家だ」 という説が、長年史実だと思われてきました。 芹沢鴨は、その芹沢家当主・芹沢貞幹の三男である、と。 しかし近年その根拠となる資料が見直され、新たな事実が発見されました。 どうやら、芹沢鴨だと思われていた芹沢貞幹の三男と、芹沢鴨は別人らしい、というのです。
芹沢鴨は、出自に不明な点もありますが、おそらく水戸出身の脱藩浪士です。 芹沢が文武両道だったと評される背景には、若い頃に、水戸藩校・弘道館で、水戸学を始めとする学問をみっちり学んだ経緯があるからでしょう。 また、剣の腕がずば抜けていたというのも、神道無念流の免許皆伝で、道場では師範代を務めるほどの腕前だったという経歴を見れば納得です。
芹沢鴨の辞世の句として伝わっている有名な歌があります。
雪霜に ほどよく色のさきがけて 散りても後に 匂う梅が香まだ春は遠い雪霜の中、他の花に先駆けて鮮やかに咲いた梅は、散った後にも香りが残って、その存在を示すだろう…というような意味でしょうか。 転ずると、 「攘夷の魁となって自分は散っていくが、この志は散った後にも香る梅のように、後世へと受け継がれていくだろう」 という意味が込められているのでしょうね。
芹沢鴨が大酒呑みの酒乱であったことは、あまりに有名な史実です。 芹沢が酒を手放せなくなった理由のひとつとして、彼が梅毒患者だったのでは、という説があります。 ここでは、その説の真偽について考察してみたいと思います。 文久3年、上洛した浪士組のメンバーの一人だった、草野剛三という人が、この説の出所のようです。