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芹沢鴨 出自の謎

新選組初代筆頭局長だった芹沢鴨。

彼は、浪士組が結成され、江戸を出発する時、三番組の小頭に抜擢されています。
(問題起こしてすぐ解任されていますがw)

また、浪士組が正式に会津藩御預かりとなり、壬生浪士組となった時にも、筆頭局長に推されていることなどから、その時にはすでに、なんらかの実績があり、ある程度名の知られた人物だったのではないか、ということが考えられます。

しかし、実は、彼の出自に関する詳細な情報はあまり残っていません。

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芹沢鴨の年齢と生年

新選組に在籍していた頃の芹沢鴨の年齢は、30代半ばくらいにみえたそうです。
(新選組が寄宿していた八木家の子供さん、為三郎さんが、後年そう語ったそうです)

その証言を元に考えると、1863年に亡くなった芹沢鴨の生誕は、1823年~1833年くらいの間ということになります。

現在、芹沢の生誕年としては、文政9年(1826年)、天保元年(1830年)、天保3年(1832年)と諸説ありますが、どの説も一応該当しますね。

亡くなった時の年齢が正確にわからない以上、生まれた年を特定するのも難しそうです。

未だ解き明かされない、芹沢鴨の出自

「芹沢鴨の生家は、常陸国行方郡芹沢村にある、水戸郷士の芹沢家だ」
という説が、長年史実だと思われてきました。
芹沢鴨は、その芹沢家当主・芹沢貞幹の三男である、と。

その説の根拠となったのは、「芹沢家系図並各代略歴」(芹沢本家当主・編)です。

この「芹沢家系図並各代略歴」を作成するに当たっての原典となった資料が、「芹沢系譜」をはじめとする様々は資料なのですが、この資料が近年見直され、新たな事実が発見されました。

どうやら、芹沢鴨だと思われていた芹沢貞幹の三男と、芹沢鴨は別人らしい、というのです。

ちなみに、件の芹沢貞幹の三男はその資料には早世した、と記されていたそうです。

早世というと、30代とか40代くらいで亡くなったのかな、というイメージがあり、それであれば、まさに30代半ばで亡くなった芹沢鴨にも該当すると思ったのですが、あの時代の「早世」が何歳くらいを指すのかは、ちょっと分からないですよね…。

また、芹沢貞幹の四男は、文政7年(1824年)、もしくは文政9年(1826年)に生まれているので、芹沢鴨が、この家の三男だったなら、少なくとも文政9年(1826年)より前に生まれていなくてはなりません。

しかし、芹沢の生誕年として説が挙がっているのは、前述の通り、文政9年(1826年)、天保元年(1830年)、天保3年(1832年)です。

四男の生誕年が文政7年(1824年)だったとしたら、芹沢鴨と三男は完全に別人と考えざるを得ません。
仮に、三男が文政9年の頭に生まれて、四男が年末ごろに…というのも考えられなくは無いので、そうなると鴨が三男だった可能性も一概に否定は出来ませんが、鴨の生誕年が、天保元年か天保3年だったら、完全に計算が合いません。

たしかに、芹沢貞幹の三男=芹沢鴨、と断定するには若干根拠が弱い気も…。
とはいえ、完全に別人とも言い切れないような気も…。

新説?「芹沢鴨は、水戸藩士芹沢又衛門の子」

芹沢鴨が芹沢貞幹の三男かどうかはさておき、彼が水戸の芹沢家の人間でなければ説明が付かない、という事実もたくさんあります。

ひとつは、芹沢鴨が使っていた署名です。
北野天満宮に奉納した額や、借金の借用書(笑)に書かれた、
「芹沢鴨 平光幹」という署名。
これは、芹沢家に詳しいものでなければ知りえない決まりに基いて書かれたものだそうです。

また、芹沢の葬儀の際にも、「水戸候の家来」という芹沢の兄が二人来た、と八木老人が証言していますし、近藤勇の書簡にも、芹沢のことを「水戸脱藩浪士」と明記されています。

極めつけは、島田魁が記した「英明録」です。
ここには、芹沢鴨の事を、「又右衛門 子」(もしくは「又左衛門 子」文字がかすれて判読不可だそうです)と記してあります。
それをもとに調べてみると、父として該当しそうな人物として、芹沢村の本家から水戸藩に仕えた家があり、水戸藩士・芹沢又衛門という人物が浮かび上がってきたそうです。

芹沢鴨が芹沢貞幹の三男なのか、それとも芹沢又衛門の子なのかは今後の調査で明らかになるのを待つとしても、いずれにせよ、彼が、水戸から脱藩してきた武士だったことは、どうも間違いないようですね。

下村嗣司から芹沢鴨へ

ちなみに、芹沢鴨は浪士組に参加する以前は、下村嗣司と名乗っていました。

下村家は、神官の家で、下村嗣司も元は神官でした。
それを考えると、
「あれ?武家じゃないの?」
「あれ?下村家が芹沢家とどう結びつくの?」
という疑問も湧いてきますが、単純に考えると、婿養子だったのかな、と。

もし芹沢鴨が芹沢貞幹の三男であれ、芹沢又衛門の子であれ、長男でなければ他家に婿に行ってもなんの不思議ではないので、個人的にはここにそう大きな違和感は感じません。

実際、永倉新八によると、芹沢鴨には妻子もあったと言います。
(結局下村姓は捨てて、また芹沢姓を名乗っているので、その妻子との関係がどうなったのかは分かりませんが)

そして、下村家の伝承によると、下村嗣司は文久元年に投獄され、処刑を申し渡されていたものの、処刑されたという記録はなく、その後行方不明なんだとか。

永倉新八によると、芹沢鴨にも投獄されていた経歴があるとのことですし、近藤勇の書簡にも、
「下村嗣司こと 改め芹沢鴨」
と書かれていたということなので、下村嗣司=芹沢鴨はおそらく間違いないのではないでしょうか。

芹沢鴨は、この下村嗣司であった時代、天狗党の前身である玉造党の大幹部で、過激な尊皇攘夷派でした。
芹沢鴨となるまでに、投獄されたり、釈放されたりといった紆余曲折を経るのですが、その詳細は「芹沢鴨と天狗党」のページをご覧くださいませ。

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