芹沢鴨は暗殺される直前にも、大阪の吉田屋で大騒動を起こしています。
ここでは、芹沢鴨の乱行の犠牲となった女性、小寅とお鹿についてご紹介します。
嫌なものは嫌!意地を張り通した芸妓小寅、
そして巻き添えのお鹿
文久3年9月、新選組は幕府の要人警護のため、大阪に出張しました。
京屋という宿に宿泊していたのですが、夜になると隊士たちは皆、大阪での行き付けの遊郭・吉田屋へ遊びに出かけてしまいます。
宿には、芹沢と永倉だけが残りました。
ちなみに芹沢と永倉は、共に「神道無念流」の免許皆伝者で、割と仲良しだったようです。
しかし、いくら仲良しでも、男二人だけで飲むのは寂しかったのでしょう。
芹沢と永倉、それぞれお気に入りの女性を吉田屋から呼ぼう、という話になりました。
芹沢のお気に入りは、芸妓の小寅さん。
永倉のお気に入りは、お鹿さんという吉田屋の仲居さんです。
小寅さんとお鹿さんを交えて4人で楽しく飲み、もう寝ようかという頃、芹沢は小寅さんに「帯を解け」と迫りました。
しかし、小寅さんは、実は芹沢のことが嫌いだったそうで、散々芹沢に粘られても頑として拒否しました。
そのうち芹沢も怒りだし、深夜であるにもかかわらず「帰ってしまえ!」と言い出します。
小寅さんとお鹿さんは、永倉さんが手配した駕籠に乗って帰って行きました。
さて、問題はその翌朝です。
芹沢は永倉に言いました。
「昨夜の小寅とお鹿の態度は失礼極まりないものだから、今日、二人の首を斬ってしまおう」
振られた腹いせに殺すだなんて、とんでもないことです。
これには永倉も驚いて、なんとか芹沢をなだめようと画策します。
自分たちが乗り込むより前に、大量の芸妓の揃え、酒宴の用意をし、芹沢が着いたら仲居や芸妓らが丁重に出迎えるように、と手筈を整えました。
しかし、吉田屋に乗り込んだ芹沢は、出迎えた一人の仲居の肩を、トレードマークの大鉄扇で叩き、失神させてしまいます。
盛大で丁重な出迎えでも、彼の機嫌は直らなかったのでしょう。
芹沢は、店の主人を呼びつけました。
主人は、臆したのかそれとも本当に留守だったのか、対応したのは主人の代理だ、と名乗り出た京屋の主でした。
芹沢は、
「小寅とお鹿が無礼を働いたゆえ、申し付けることがあるので二人を差し出せ。さもないとこの店を粉々に壊す」
と京屋に迫りました。
店への恩義がある二人は、そう言われては逃げることも出来ず、芹沢の前に姿を現します。
永倉は、この時の二人の様子を「浪士文久報国記事」の中で、このように振り返っています。
“―――此時婦人ハ、畳ノ目分カラザルホト眼ガ眩ム”
畳の目が分からないほど云々という表現が、個人的によく分からず、調べてみると、畳は、「縁を踏まないように静かに歩く」とか「畳の目を見て相手との距離を測る目安にする」というふうに、礼儀作法に深く関わっていたようです。
そこから察するに、当時、小寅さんとお鹿さんも、接客業に従事する者として、当然そうした作法は守っていたはずですが、この時は、恐怖でそれもままならなかった、ということでしょう。
結局、芹沢は、二人の女性に、
「男なら本来首をはねるところだが、女だから断髪を申し付ける」
と言い、小寅さんとお鹿さんは、髪を切られてしまいました。
芹沢は、切った髪を酒肴にして宴会をしたそうです。
災い転じて…
髪を切られ、遊女として働けなくなってしまった小寅さん。
しかし、その話が人々の噂になると、
「女の命の髪を切られてさえ、嫌な客には肌を許さないとは、見事な妓だ」と評判が上がりました。
結果、裕福な町人に請出される事になったそうです。
お鹿さんも同じく、仲居としての仕事はできなくなりましたので、こちらは永倉さんが彼女を貰い請け、他家へと縁組しました。
芹沢は、この騒動の一ヶ月前の8月にも京都の角谷という店で、店の者の態度が悪いと言って大暴れし、店内で破壊の限りを尽くした挙句、7日間の営業停止命令まで出しています。
こういう事をするから、悪役キャラが定着してしまうのです・・・・・・。