芹沢鴨は、新選組史においては、どちらかというと近藤一派の引き立て役で、
「酔った上での乱行が過ぎたせいで、あっというまに部下に粛清された悪役」
というイメージが世に定着しています。
実際、
「遊郭で暴れまくって店内を破壊しつくした挙句、営業停止命令を出した」とか、
「自分をフッた芸妓の髪を腹いせに切った」とか、
とにかく酒乱で横暴、性質の悪い乱暴者、と思われても仕方が無いエピソードも史実として存在します。
しかし、その一方で、
「剣はずば抜けた腕前を持っていて、文もできたし、文部両道の人。ひとかどの人物だったらしい」
(八木家15代目当主・八木喜久男氏による談)
「芹沢の死は国家的損失」
(新選組二番隊組長だった永倉新八の談)
という証言があったり、組頭や局長に推されるなど、社会的な評価が妙に高かったのも事実です。
これは一体どういことなのでしょうか。
その謎を解く鍵は、どうやら芹沢鴨の経歴にあるようです。
芹沢鴨=下村嗣司
芹沢鴨は、出自に不明な点もありますが、おそらく水戸出身の脱藩浪士です。
芹沢が文武両道だったと評される背景には、若い頃に、水戸藩校・弘道館で、水戸学を始めとする学問をみっちり学んだ経緯があるからでしょう。
また、剣の腕がずば抜けていたというのも、神道無念流の免許皆伝で、道場では師範代を務めるほどの腕前だったという経歴を見れば納得です。
そんな芹沢鴨は、浪士組に参加する以前は、下村嗣司と名乗っていました。
神官だったそうです。
水戸藩士である芹沢家で生まれた芹沢鴨が、なぜ神官の家である下村家に入ったのは不明ですが、芹沢鴨には妻子があった、という説もあることから、下村家へは婿養子として入ったのでは、とされています。
(ただ、この間の資料は少なく、真偽のほどは定かではありません)
神官・下村嗣司は、しかし、何がしかのきっかけで、神官の職を捨て、尊皇攘夷の戦いに身を投じる道を選びました。
1853年の黒船来航時、下村嗣司はおそらく20代前半です。
そこから混迷を深める一方の日本の様子を見るにつれ、自分も何かしなくてはいけない、という思いが湧いてきたのかもしれません。
1860年ごろ、下村嗣司は玉造村の文武館を拠点として活動する、玉造勢(天狗党の前身となる組織)に参加するのでした。
下村嗣司、投獄
1861年、玉造勢は、横浜で攘夷を決行しようと動き出します。
しかし、これが彼らの先行きに、大きな影を落としました。
玉造勢は攘夷の資金集めに奔走する中、その活動を水戸領内だけでなく、幕府直轄の領地でも行ってしまったのです。
また、この頃、天狗党を騙り、攘夷を口実に恐喝を繰り返す輩が多く出てきてしまったことも不運でした。
幕府は、水戸藩に攘夷派の活動を抑制するよう指示し、これを機に攘夷論急進派であった藩の首脳陣が更迭されてしまうという事態に陥ります。
そして、攘夷派の反対勢力である保守派の諸生党が藩の実権を握ると、玉造勢は、水戸藩によって弾圧されることになったのです。
結果、文久元年3月28日、下村嗣司は投獄されました。
ちなみに、玉造勢のなかで、下村嗣司は、配下を200~300人も抱えるほどの大幹部だったという説があります。
下村嗣司、改め、芹沢鴨
文久元年3月の終わりに投獄された下村嗣司は、文久2年の9月には処刑を言い渡されているのですが、結局、その処刑が実行されることはありませんでした。
なんと、嗣司らが投獄されている間にも情勢は変化し、攘夷急進派が政権を取り戻したのです。
政治犯として投獄されていた攘夷派の志士たちには、12月に出された大赦令により、開放されます。
嗣司も、この時、2年近いの牢での暮らしから開放されたのでした。
藩によって攘夷の志を教え込まれた青春時代、そして、その教えに殉じようと玉造勢に参加したものの、上層部が藩の主導権争いに敗れたために、今度は藩から弾圧され、投獄。
獄中で死を覚悟したら、今度は大赦令により生き延びた…。
釈放はされたものの、嗣司は、これを単純に喜べるような心境だったのでしょうか。
同じ志に殉じて散っていった仲間もいたわけですし、日本が一大事だという時に、狭い藩の中で覇権争いを繰り返し、それに翻弄される身の上に、疑問を持ったとしても不思議はないのかもしれません。
下村嗣司の消息は、ここで途絶えました。
その1~2ヵ月後。
年が明けた文久3年の2月5日、江戸で、近く上洛する将軍の警護のための浪士隊を結成するという募集に、芹沢鴨という男が現れます。
彼は、下村嗣司こと、改め芹沢鴨、と名乗っています。
余談ですが、壬生浪士組が寄宿していた八木家の母屋の東側にも道場があり、隊士たちはそこで剣の修練を積んでいたそうです。その道場は文武館と名づけられています。
文武館は、玉造勢の拠点だった場所の名です。
偶然なのか、それとも、かつての仲間と共に掲げた志を、脱藩後もなお胸に抱き続けた、局長芹沢の命名だったのか…。
その後の芹沢鴨の活躍と最後は、多くの人が知るとおりです。
※嗣司は嗣次、継次とも言われていますが、ここでは嗣司に統一しました。