ここでは、江戸で集められた浪士組200余名が、なぜ上洛してすぐに江戸へ帰ることになったのか。そして、近藤や芹沢たちが、なぜ、浪士組と袂を分かち京都に残留することになったのかについて解説します。
清河八郎の姦計
浪士組は、近々上洛する予定の将軍・徳川家茂の警護を目的とした募集でした。
発案者は、清河八郎と言う人物です。
この募集には、200人もの人が集まりました。
しかし、いざ浪士組が京都に到着すると、清河は真の目的を明らかにします。
彼が兵を募った目的は、将軍警護のためなどではなく、尊皇攘夷の魁となる、朝廷のための部隊を作ることだったのです。
騙されて集められたにもかかわらず、浪士組に参加した大部分は、それでも清河に従いました。
尊皇攘夷という思想そのものは、当時、ごく常識的なものです。
わざわざ反対する必要はありません。
また、浪士たちにとって一番重要なのは、雇い主を得ること、そして、混沌とする幕末の世に、なにかしら自分の力を役立てる場を見つける、ということでした。
目的が将軍警護だろうと尊皇攘夷だろうと、ぶっちゃけどっちでも良い、という人がほとんどだったのです。
加えて、清河八郎は、北辰一刀流の免許皆伝を得て、江戸の学問所でしっかりと学び、学問と剣術の両方をひとりで教える塾を開いていたようなマルチな才能の持ち主でした。
この一件だけ見ると、なにやら小ズルイ人物のようにも見えますが、実は経歴はとても立派なのです。
そんな清河の演説は、浪士たちのそんな願いに対して強い訴求力があったのでしょう。
同時に、もしかしたら清河の言っていることの意味を、きちんと理解できなかった浪士もいたのではないでしょうか。
細かく突っ込まれたくない話には、やたらに難しい言葉や専門用語を用いて、相手を煙に巻こうとする・・・
そういうインテリはどの時代にもいるものです(笑)
しかし、そんな清河の口車に乗ることなく、当初の目的である将軍警護を遂行する!と、京都に残留する勢力がありました。
それがいわゆる京都残留組、近藤勇たち試衛館一派、芹沢たち水戸一派、そして、殿内一派などの数名の人達だったのです。
もちろん、この清河の行いは、幕府にとっても許しがたい裏切りです。
幕府の名を騙り200人もの手勢を得た清河を放置しておくことは出来ません。
幕府は、口実を設けて、浪士組を江戸に呼び戻します。
結果、浪士組は京に着いてほぼすぐに、江戸へ取って返すことになりました。
清河は、江戸に戻ってすぐに、何者かに暗殺されています。
ちなみに、江戸に戻った浪士組は翌年、庄内藩御預かり「新徴組」に改編されました。
この新徴組には、総司の義兄である沖田林太郎さんが組頭として所属しています。