永倉新八は新選組時代、ある女性との間に娘をひとりもうけています。
彼女の名は、小常。
島原遊郭、亀屋の芸妓でした。
永倉は自筆記録の中で、この小常さんの事を生家の名字「長倉」を冠して記載し、「長倉新八貰請ク」と記しています。
また、小常さんの名は彼の生家である長倉家に伝わる過去帳にも、戒名「妙董信女」と共に残されています。
このことから、二人は正式に結婚こそしていなかったものの、お互い夫婦のように認識していたのだろうということが伺えます。
出撃前夜に逝った恋人、小常
小常さんは慶応3年7月に娘を出産しますが、産後の肥立ちが悪く、出産から5ヵ月後の12月11日、とうとう亡くなってしまいます。
しかし永倉は、小常さんの今際の際に傍にいて彼女を看取ってあげることはできませんでした。
小常さんが亡くなる2日前の慶応3年12月9日、「王政復古の大号令」が発せられ、天下は正に風雲急を告げる大戦の直前だったのです。
ちなみに、「王政復古の大号令」とは今後江戸幕府は廃止し新政権を樹立すると朝廷が宣言した政変のことで、もちろん、それを出させたのは倒幕派である薩長軍でした。
この年の6月、新選組は隊士全員が幕臣に取立てられ、明確に佐幕の立場を取っていましたから、この政変は避けられない戦いの始まりを意味するものです。
小常さんが亡くなったのは、戦の前の緊張が最高潮に高まっていたであろう出撃前夜。
新選組が不動堂村の屯所を引き払う前日のことでした。
もちろん、そんな時に隊の重役を担っていた永倉が、持ち場を離れて恋人のところへ駆けつけることなど、できるはずもありません。
永倉に出来たのは、せめて隊の小者に小常さんの埋葬の手配を依頼するくらいだったのです。
今しかない!乳母・岡田貞子の機転で叶った、父娘の初対面
小常さんが命と引き換えにして産み落とした娘は、磯と名づけられ、健やかに育っていました。
しかし、どういう事情かは明らかでないものの、永倉との父娘の対面はまだ済ませておらず、磯ちゃんは父の顔を知らないままでした。
生後たった5ヶ月で母を亡くした磯ちゃん。
そして時を同じくして、父である永倉も、大きな戦に出陣しようとしている・・・。
そのことを新選組の小者から聞きつけた磯ちゃんの乳母・岡田貞子は、父娘が会える機会は今しかないかもしれない!と、磯ちゃんを抱いて新選組の屯所へと走りました。
貞子の訪問を受けた永倉は、戦支度で混雑する屯所から貞子と磯を連れ出し、向かいの八百屋へと駆け込みます。
父・永倉と、娘・磯は、この時初めて父娘の対面を果たしたのでした。
しかし戦が始まり、時が流れ、この父娘が再会できたのは、明治も32年になってからのことで、再会した時、磯ちゃんは女優となり尾上小亀と名乗っていたそうです。