元治元年頃、近藤勇は一人の遊女を請出しています。
遊女の名は、深雪太夫。
年齢は、23~24歳で、背がスラリと高い美女でした。
ちなみに、太夫というのは遊女の中でも最高位に位置するランクです。
広く深い教養を持ち、芸をさせれば名取や師範クラスの腕前、それでいて遊戯にも通じ、もちろん容姿もとびきり端麗。
禿(かむろ)が1,000人いたとして、大夫の位にまで登り詰めることが出来るのは、ほんの3~5人だったそうです。
(かむろ、というのは遊郭に売られた童女や、そこで生まれ育った童女)
なんだか怪しい、深雪太夫の病没説
深雪太夫を請出し、休息所に住まわせて寵愛していた勇ですが、一年ほど経った頃、身体の弱かった深雪太夫が病没してしまいます。
勇は、その寂しさを埋める様に、今度は深雪太夫の妹、御幸太夫を身請けし、「お孝、お孝」と大変可愛がった、と言われています。
しかし、この深雪太夫病没説、なんだか少し微妙なんですよね。
明治に入ってからも、深雪太夫と会った、と証言している人物が複数いることや、実は勇が深雪に200両もの手切れ金を渡して、御幸太夫に乗り換えた、という説が残っているからです。
これが本当なら、酷い話です。
最初は姉を囲っておきながら、結局お金で手を切り、次はその妹を…なんて…。
姉の旦那さんに手を付ける妹も相当ですが。
勇の娘、お勇
ともあれ、妹のお孝さんの方も、姉に劣らず美人で、勇からとても愛されていたそうです。
新選組が京都を離れた後もしばらくは休息所にとどまり、同所に潜伏していた沖田総司の世話などもしていたのだとか。
ちなみに、お孝さんは、勇の娘を産んでいます。
娘の名は、お勇。
このお勇ちゃんは、後に芸妓となり、伊藤博文や井上馨らに贔屓にされていたそうです。
そして、後に朝鮮に渡って貿易商に嫁いだという説もありますが、真偽のほどは定かではありません。