近藤勇は、京の都でたくさんの女性と関係を持ちました。
いずれも京で指折りの名妓ばかりです。
しかし実は、勇には江戸に歴とした正妻がいました。
正妻の名は、つね。
彼女は勇の愛人たちのような器量良しではありませんでした。
しかし、強く賢く誇り高い、武士の娘でした。
「美人じゃないから、あえて選んだ?!」
つねさんは、天保8年9月10日、御三卿清水家の家臣・松井八十五郎の長女として生まれました。
そして、一橋家の祐筆を務めるほどの才女だったそうです。
勇と出会ったのは24歳の時。お見合いでした。
人の寿命が短く、女性の人生の選択肢もとても少なかった時代です。
24歳で独身だったつねさんは、「行き遅れ」呼ばわりされていました。
(江戸時代では、なんと二十歳前後でもう「年増」と言われたそうです)
しかし、家柄も良く、賢かったつねさんが、どうして「行き遅れ」ていたのでしょうか?
一説によると、つねさんは顔に痘痕があり、あまり美人ではなかった、と言われています。
そして、勇がつねさんを妻に選んだ理由は、まさに彼女が醜女だったからである、とも。
実は、近藤勇もつねさんと出会うまで、たくさんのお見合いをしていました。
しかし、どんな女性に会っても、首を縦には振りませんでした。
それが、つねさんに出会い、やっと結婚を決意したのです。
仲人が不思議に思って、何故つねを選んだのかと勇に尋ねました。
勇は、こう答えたそうです。
「美人は貞淑を欠くのが世の常である。
しかし、醜女は自分が人並みでないことを知っているから、真心を持って夫に仕え、常に控えめで居るものだ。
自分が殊更に醜女を選んだのは、この婦徳ある女性を得たいと願ったからだ」
これが事実なら、ひどい言い草ですよね。
また、男所帯の剣道場を切り盛りする奥方が美人過ぎると、門下生が浮き足立ち、いらぬトラブルの元になると考えたからだ、という説もあります。
しかし、残っている写真を見る限り、つねさんは別に、ことさら醜女というわけではありません。
痘痕の後があるか無いかまでの判別はちょっと出来ませんが、ごく一般的な容姿です。
とにもかくにもこの時代、妻とは夫に仕えるものでした。
「美人でないから選んだ」というより、妻を選ぶにあたって「美人かどうかは重要でなかった」と勇が考えていた可能性はあるのではないでしょうか。
いくら美人でも、天然理心流宗家の奥方に相応しい資質がなければ、道場や近藤家を切り盛りしていくことはできません。
なにより、つねさんは武家の娘さんです。
生まれながらにして士分を持たなかった勇は、だからこそ、ことさら身分にこだわる傾向があったようです。
つねさんの出自は大きなポイントだったのではないでしょうか。
幸せな新婚生活から一転、夢を掴むため、旅立った夫
小野路の小島家に、近藤勇の稽古着とされるものが残っていて、その稽古着には、つねさんお手製のドクロの刺繍が施してあったといいます。
当時、おしゃれさんたちの間では、ドクロ柄が流行っていました。
夫のために一生懸命稽古着に刺繍をしてあげるつねさん、その稽古着にそでを通してはしゃぐ勇の姿が浮かぶようです。
結婚から2年後には長女・たまも誕生し、つねさんは少しの間、幸せな新婚生活を過ごします。
しかし、結婚から3年が過ぎた頃、勇は家族を残し、京の都へと旅立っていきます。
将軍警護のための浪士隊に志願したからです。
まだたった1歳の愛娘と妻を江戸に残し、道場(試衛館)を潰してまで浪士隊に参加しようとするほどに勇を駆り立てたものは、一体なんだったのでしょうか。
逼迫した道場の経営状態だったのか、それとも然るべき評価を受ける事の出来ない自分の身分の低さに対する鬱憤だったのか…
夫の苦しみや鬱憤、焦り、怒りを、一番近くで見つめ続けていたつねさんには、
「そんなあてどない夢より、私達家族が皆で暮らす幸せを考えて・・・!」
とは、言えなかったのかもしれません。
この上洛に当たって勇は、二度と妻子に会えない覚悟を決めたと言っていたそうです。
そんな覚悟を受け入れて、勇の背中の見送った時、つねさんは何を思っていたのでしょうか。
再会、指輪、永久のさよなら
その後の近藤勇が、紆余曲折を経て「泣く子も黙る新選組」の局長として、華々しく活躍したのは誰もが知っている通りです。
勇は、羽振りのよかった頃は島原一と謳われる遊女「御幸太夫」をはじめ、様々な美女を囲っては、彼女らのもとに足繁く通いました。
けれども、正妻であるつねさんの元に勇が会いにいったのは、仕事で東帰した際の数回だけ。
それもほんの短い期間江戸に留まっただけで、またすぐに戦いの地へと出向いて行ってしまうのでした。
しかし、勇の中でつねさんの存在が軽いものだったのかというと、決してそうではないようです。
鳥羽伏見の戦に破れ、賊軍の汚名を着せられ、仲間を失い、満身創痍だった勇は、それでも江戸へと敗走する船上で、妻子に会えるのが楽しみだと笑ったそうです。
どんなにボロボロになっても、彼女たちの事を思えば、笑うことができる。
これは、遠く離れていても、つねさんとたまちゃんの存在が、勇の心を支え、癒していたのだろうということがよく分かるエピソードです。
そして、慶応4年(明治元年)3月、戦いの最中に慌しく帰宅し、つねさんと束の間の再会を果たした勇は、その後、もう二度と彼女の元に戻ることはありませんでした。
同年4月に板橋の処刑場で、官軍に背いた逆賊として斬首刑に処されたのです。
最後の逢瀬の際、勇は、つねさんに指輪を贈ったと言われています。
「二夫には仕えない」
その意志を貫くためになら、自害も辞さず!
勇が見込んだとおり、つねさんは、勇が京都へ旅立った後も、そして勇の死後さえも、勇ひとすじを貫き通しています。
周囲から強引に再婚話を進められそうになった時、つねさんは
「二夫には仕えません」
と言い、自分で自分の喉を突いて自害しようとしたそうです。
娘のたまちゃんは、明治9年、15歳で許婚の宮川勇五郎という人と結婚し、その後22歳で男の子を出産します。
しかし、その3年後、つねさんを遺して25歳の若さで他界してしまいました。
つねさんは、明治25年、56歳で亡くなりました。