沖田総司が池田屋で喀血したのは、史実なのか、それとも創作なのか。
労咳で亡くなった歴史上の有名人との比較や、新選組の活動内容から、総司の発病時期を検証します。
総司の死因、労咳
その発病時期に関する謎
沖田総司の死因は、労咳。
現代で言うところの肺結核だったというのは、有名な事実です。
池田屋での戦いの最中に喀血するというエピソードが、長い間史実と信じられ、数多くの映画や小説、ドラマなどでもそのように描かれてきました。
しかし、最近では、
「労咳で喀血するのは末期症状。
そうなるともう余命は半年から一年しかないから、池田屋(1864年)で喀血した総司が、慶応4年(1868年)まで生きているとは考えにくい。
総司の発病はもっと後では?」
という説もあるようです。
労咳で喀血した人の余命が、間違いなく1年前後しかないなら、たしかに池田屋で喀血したというのは計算が合いませんね。
しかし、喀血したら余命は半年~一年というのは、何を根拠にした説なのでしょうか?
現代では、結核は治療可能な病となっているため、逆に喀血してからの余命はわかりません。
とすると、労咳が不治の病であった時代のデータを元に、考察するしかありません。
労咳で亡くなった歴史上の有名人には、高杉晋作、正岡子規、石川啄木などがいます。
彼らは、発病からどのくらいの期間生きることが出来、最初の喀血を起こしたのはいつごろだったのでしょう。
労咳で亡くなった有名人から見る
総司の発病時期
高杉晋作は、総司と同じ時代を生きた青年です。
慶応2年9月に喀血し、その7ヵ月後の慶応3年4月に亡くなりました。
ちなみに、慶応2年6月の第二次長州征伐の前から調子が悪かったそうです。
自覚症状から3ヶ月で喀血、喀血から7ヶ月で死亡、発病からの余命はトータル10ヶ月です。
石川啄木は、喀血した時期は分かりませんが、25歳の時に発病し、26歳で亡くなりました。
喀血から、というより、肺結核と言う診断が下されてから、こちらも1年で亡くなっています。
この2例を見ると、やはり池田屋の頃から総司が労咳を患っていた――しかも喀血があるほど症状が進んでいた――とは考えにくいように思います。
しかし、その一方で、最初の喀血から10年以上も生きた人もいます。
正岡子規は、35歳で結核で亡くなっていますが、彼が最初に喀血したのは、21歳の時だったそうです。
罹患から実に14年間も存命しています。
こんなケースもあるんですね。
現代においても、病の進行や治り具合は千差万別…。
総司の発病時期をあれこれ推測することは出来ても、特定するのはやはり難しいです。
新選組の活動記録から見る総司の発病時期
池田屋での戦線離脱は、果たして労咳のせいだったのか、それとも別の病だったのか・・・。
現代を生きる私たちにそれを知る術はありませんが、総司は池田屋の翌年には脱走した山南を単騎で追跡したり、山南が切腹した際にはその介錯を勤めたりしています。
また、慶応元年には脱走した隊士・酒井兵庫を、慶応2~3年には浅野薫を処断したという記録もあるので、少なくともその頃までは普通に隊務に就いていたのではないでしょうか。
闘病しながら隊務に就いていたのか、それとも、そのあたりまでは発病さえしていなかったのかは定かではありませんが、少なくとも慶応3年のどこかの時点までは、命のやり取りの場に、立てるだけの体力があったことは確かです。
総司が、
「本来なら明らかに出動すべき場面」
にもかかわらず出動できずに寝込んでいたのは、近藤勇が御陵衛士の残党に狙撃された時です。
慶応3年の12月ですね。
この時は、動けない総司に代わって、永倉新八が1・2番隊を率いて出動しています。
これが、総司が亡くなる約半年前のことです。