ここでは、沖田総司の身長や外見、誕生日、経歴についてご紹介します。
沖田総司のプロフィール
本名
沖田総司藤原房良。
幼名は沖田惣次郎藤原春政
身長
5尺5寸、5尺7寸などの説があり、推定167~172cm。
当時の男性の平均身長が160cmにも満たない事を考えると、長身の部類だったようです。
外見的特長
長身、色黒、猫背、ヒラメ顔…
うん、可愛くていいじゃないですか。
免許・資格
天然理心流免許皆伝
北辰一刀流免許皆伝
沖田総司の経歴
0歳 沖田総司の生年月日の謎
総司の誕生時期には2つの説があり、天保13年(1842年)または15年(1844年)の夏といわれています。
総司は生まれ年もハッキリしない上に、誕生日すら分からないのです。
別の家族(姉・みつ、次姉・きんなど)の生年月日はちゃんと残っているのに・・・。
これは一体なぜなんでしょう・・・、謎だ・・・。
2歳
白河藩士であった父・勝次郎が2歳の時に死去。母とも死別。
姉のみつが母親代わりでした。
10歳
1853年、姉夫婦に、跡取りとなる長男・芳次郎が誕生します。
同じ頃に、江戸市谷の天然理心流の道場・試衛館(近藤周助)の内弟子となることが決まり、家を出されました。
12歳
家伝によると、なんと総司はこの歳、若干12歳にして白河藩の指南役と試合をして勝利した、という記録があるそうです。
これが事実なら、小学生くらいの子が、剣道の先生に勝っちゃったということになりますね。
凄まじい天才っぷりです。
13歳
入門からわずか3年後の、1856年には、近藤とともに調布の下仙川村に出稽古に行ったという記録があります。
若干13歳にして、近藤勇とともに天然理心流の看板を背負い、他流派へ稽古に出向いていたのでしょうか。
19歳
免許皆伝、塾頭となります。
つまり、近藤勇の一番弟子です。
なお、総司の墓石には、総司が天然理心流の免許皆伝者であると同時に、北辰一刀流の免許皆伝でもあったと刻まれています。
北辰一刀流、いつ習ったんだろう…?
上洛してからは新選組として仕事をしていたわけですから、北辰一刀流を学んだのも試衛館時代ということになるのでしょうが、10代にして複数の流派の免許皆伝とは、やはりものすごい天才ぶりです。
ちなみに、このあたりの歳で、総司は麻疹に掛かっています。
当時、麻疹は死に至ることもあるような病気でしたから、周囲もかなり心配したようです。
天然理心流3代目の周斎の弟子で、土方歳三の親戚でもあった小島鹿之助という人が、この時、麻疹に罹った総司の事を心配して、日記にこんな事を書いています。
「此人剣術者、晩年必名人ニ可至人也、故ニ我等深心配致ス」
将来、総司はきっと名人になる人なんだ。だからホント、心配だよ、というような意味ですね。
この頃から、総司が周りから天才剣士だと認められていた、と同時に、周囲の人からとても愛されていたことが分かるエピソードです。
20歳~24歳
浪士隊として上洛。
副長助勤筆頭、新選組一番隊組長、剣撃師範筆頭、小銃頭などを歴任。
しかし、終盤は病気のため、戦線離脱を余儀なくされます。
25歳
江戸に戻り、千駄ヶ谷にて病没。
※1844年生まれ説を採用しています
美化されすぎにご注意
総司に関する情報は、必要以上に美化される傾向があるので、注意が必要です。
(同じように、必要以上に貶められる傾向もあるんですけどね・笑)
たとえばwikipediaには
15歳のとき日野の八坂神社に奉納された天然理心流の額には、4代目を継ぐことが決まっていた近藤勇より前に沖田の名前が記載されている
とあります。
まるで15歳の総司の方が近藤勇より強かったり、試衛館で重い存在だったかのような印象を受ける記述ですね。
しかし、実はこの剣術額、確かに名前を書いてある順番は近藤勇より沖田総司が先ですが、その総司の名より先に、20人以上もの名が書かれています。
3代目宗家周斎の名のすぐ後に、総司、勇、と続いていたなら
「近藤勇より先に名が載っているくらい総司はすごかった!」
と表現するのも納得です。
しかし実際は勇の前に20余名の名が書かれていて、その中に総司の名もあっただけ。
その事実を伏せて、「総司の名が勇より先に書いてあった!」と都合のいい部分だけピックアップして書くのは、ミスリードといわざるを得ません。
日野市観光協会ホームページの八坂神社を紹介するページに、件の剣術額の写真が載っているので、興味のある方は一度ご覧になってみてください。
http://makoto.shinsenhino.com/archives/place/050502195229.php
一番大きな文字で、一番高い位置に書かれているのが、近藤周斎。
続いて門人の名が書き連ねられ、その一番最後が総司。
門人たちより高く、周斎より低い位置で、最後に勇の名が記されています。
※勇の名前は、当時名乗っていた島崎勇で記されています。
沖田総司の剣術指導
明るく無邪気で、冗談ばかり言っていた、という人物像とは裏腹に、剣術指導者としての総司は、相当厳しかったそうです。
総司の指導を受けた人の証言によると、「荒っぽく、すぐ怒る。師範の近藤勇より怖かった」とのこと。
「刀で斬るな!体で斬れ!」と教えていたそうな。
試衛館には、土方、井上、藤堂、山南など腕に覚えのある浪人が集っていましたが、その彼らさえ、総司が竹刀を持って立ち合えば、まるで子ども扱いされていたほどだったらしく、
「本気でやったら近藤もやられるだろう」
と皆が話していた、と後年になって、永倉新八が語っています。
近藤も総司の力は高く評価していて、天然理心流の5代目は沖田総司にしたい、と考えていたという話も残っています。
もしも上洛などせず、貧乏道場の仲間たちでずっと楽しく暮らしていたら、いずれ道場を継ぎ、慎ましくも平和な生涯だったのかも…なんて。
考えても詮無いことですね。