ここでは、沖田総司の姉・みつをはじめとした、総司の家族についてご紹介します。
13歳の姉・みつが総司の母代わり
沖田総司の父である、白河藩士・沖田勝次郎が亡くなったのは、弘化2年(1845年)、まだ総司が2歳の頃でした。
母、ミキさんも、時期・原因共に不明ながら、総司が幼い頃に亡くなっています。
亡くなった両親の代わりに総司を育てたのは、姉のみつさん(当時12歳)。
13歳で沖田林太郎氏と結婚し、その林太郎さんが、沖田家の家督を継ぎます。
たった13歳の女の子が結婚…しかも、まだ赤ん坊だった総司を育てたというのですから、すごい時代ですね。
みつさんは結婚から7年後に、長男・芳次郎を出産します。
この頃、総司が試衛館に内弟子として入門するので、みつさんと総司が一緒に暮らしたのは、総司が10歳になるまででした。
みつさんより3歳下の2番目の姉、キンさんは、総司が9歳の時、お嫁に行ってしまいます。
相手は中野伝之丞由秀という江戸詰の藩士でした。
義兄 沖田林太郎
みつさんの夫、沖田林太郎さん。
この人も天然理心流の免許を持つ人で、三代目・近藤周斎の門人でした。
八王子千人同心・井上家から、沖田家の養子に入って家督を相続しました。
しかし、勝次郎氏の死以降、沖田家と白河藩との繋がりは切れていたようで、林太郎さんは白河藩士ではなかったようです。
文久3年(1863年)の浪士隊募集にも、総司らとともに参加していますが、京都残留はせず、すぐ江戸に戻っています。
(本人は自分も残ろうかな~、なんて言っていたそうですが、近藤さんにダメ!帰りなさい!って言われたという説もあります。近藤さんにしてみれば、沖田家の男を二人とも京都に連れ出したんじゃ、みつさんに悪いと思ったのかもしれませんね。)
京に残った浪士組が会津藩の御預かり「新選組」になった一方で、江戸に戻った浪士組は、翌年、庄内藩御預かり「新徴組」に改編されました。
林太郎さんはその組頭に就任します。
慶応4年、病床にあった総司を江戸に置いて、沖田家が庄内藩へと移動したのは、新徴組の主であった庄内藩主・酒井忠篤が領国の出羽国庄内に戻るのに、林太郎さんも同行したためと思われます。
沖田総司の子孫
沖田総司自身は結婚していないため、直系の子孫はいませんが、みつさんと林太郎さんが継いだ沖田家は、明治の世を過ぎても無事続いています。
ちなみに、沖田総司の肖像画として出回っている画像は、みつさんの孫の要さんがモデルです。
肉親との縁が薄かった沖田総司
沖田総司は、沖田勝次郎の歴とした長男として生まれながら、惣次郎と名づけられています。
次郎って、次男の名前なんですよね。
この時代、長男には通常、太郎という名が付けられたそうです。
これはおそらく、義兄の沖田林太郎が、総司が生まれる1844年より前に、沖田家を継ぐことが決まっていたからではないかと思われます。
総司が生まれたのは、長女みつが生まれた1833年から11年も経ってから。
(総司誕生が1842年だったとしても、9年後です)
沖田勝次郎が、「もう嫡男は生まれないだろう」という諦めて、養子という形で跡取りを確保していたとしても不思議はありません。
しかし、養子の跡取りを確保した後になって、思いがけず待望の長男が誕生したのです。
総司が嫡男でありながら、次男の名を付けられたのは、こうした経緯のためではないでしょうか。
また、家督を継いだ林太郎とみつの間には、長男も誕生しました。
そうなると、沖田家嫡男として総司の立場はかなり微妙なもののように思えます。
しかも、総司が試衛館の内弟子となり、沖田家を出ることになったのは、ちょうど林太郎の長男が生まれた頃です。
新しく生まれた沖田家の長男を尻目に、家を出されることになった10歳の総司は、どんな思いを胸に秘めていたのでしょうか。
しかし、林太郎もそんな総司を気遣ってか、自分の長男に、「芳次郎」と名づけています。
いずれ総司が成長したら、沖田家当主は総司が継ぐのが筋、と考えていたのかもしれません。
いずれにせよ、総司は家族との縁は薄かったようです。
まだ赤ん坊の間に両親と死別し、幼い頃に姉たちとも別れ、試衛館へ。
試衛館の仲間と最後までともに戦えればまだ良かったのでしょうが、病のため、それも叶いませんでした。
再び江戸に戻った時には、末期の労咳でしたが、姉夫婦はそんな総司を残して江戸を離れてしまいます。
総司を看取った家族は、いませんでした。